クリティカル・ビジネス・パラダイムの背景

昨年4月に出版した拙著の「クリティカル・ビジネス・パラダイム」ですが、今年に入ってから、関連するテーマでの講演や議論のご依頼を受けることが増えています。

この記事ではあらためて、なぜこのようなトレンドが現れつつあるのか、その要因について書いておこうと思います。

私たちはどこにいるのか?

21世紀に入ってから、クリティカル・ビジネスが台頭している原理を考察する前に、まず私たちが「いま、どこにいるのか?」という点について押さえておきましょう。

この論点についてはすでに前著「ビジネスの未来」においても触れていいますが、クリティカル・ビジネスが台頭する構造原理を理解するためにはどうしても避けて通れないポイントなので、おいおい前著をすでに読んだぞ、という方もおさらいということでしばしお付き合いいただければと思います。

次の図を見てください。これは世界銀行が発表している先進7カ国、いわゆるG7の国別GDP成長率の推移を時系列でまとめたものです。データは2019年までの集計であり、コロナの影響は含まれていません。

一瞥してわかる通り、先進七カ国の経済成長率は、GDP統計を取ることがはじまった1960年代をピークに、過去を一度として上回ることなく、着実に低下してきていることがわかります。

図 8:主要国のGDP成長率の推移

あらためて、こうやってこのグラフをみると、現在の世界で喧しく議論されている「成長か、脱成長か?」という議論が、そもそも論点として破綻していることがわかります。

「成長か、脱成長か?」という議論は、私たちの意志によってどちらかの選択肢を選ぶことが可能だ、ということが前提となっていますが、このグラフを見る限り、私たちに選択の余地はありません。

世界は超長期的なトレンドとして必然的な「脱成長社会」・・・少しマイルドに表現するのであれば「微成長社会」に向かっているということです。

しかしこれは、考えてみれば不思議なことではないでしょうか?私たちは、1990年代におけるインターネットの普及、あるいは2000年代におけるスマートフォンの普及、あるいは2010年代における数々のテクノロジーイノベーションの普及によって、大きく社会が変容し、私たちの生活もまた変化したことを知っています。しかし、その変化が経済成長率には反映されないのです。

テクノロジーやイノベーションが経済を成長させるという主張を無邪気に振り回している人がよくいますが、この考え方は一種の宗教です。なぜ宗教かというと科学的なエビデンスがないにも関わらず、単に「そう信じたい人が、そう信じているだけ」だからです。

この点はすでに前著でも指摘したことですが、2019年にノーベル経済学賞を受賞したアビジット・バナジーとエステル・デュフロの二人は、根拠なきテクノロジーへの過剰な期待に警鐘を鳴らしており、近著において「インターネットが経済成長をもたらしたという証拠はいっさい存在しない」と断言しています。

なぜ、数々のテクノロジーイノベーションが起きているにも関わらず、経済成長率は低下の一途を辿っていて反転の兆しがないのか?経済学者はこの不思議な現象についてさまざまな考察を繰り広げていますが、最大公約数としての回答をここで述べれば「社会に残存する問題が少なくなってしまったから」ということになります。

資本主義と市場原理は「大きな問題」から解決する

ビジネスはこれまで、それぞれの時代において、社会に存在する問題を解決することで経済的価値を生み出してきました。したがって、社会に残存する問題が減ってくると、経済は停滞することになります。

次の図を見てください。これは社会に存在する問題を「普遍性」と「難易度」のマトリックスで整理したものです。 

「問題の普遍性」と「問題の難易度」のマトリックス

ビジネスの役割を「社会に存在する不満・不安・不便という問題を解決すること」と定義した上で、世界に存在する問題を全てこのマトリックスに投げ込んで整理すると考えてみてください。

横軸の普遍性とは「その問題を抱えている人の量」を表します。つまり「普遍性が高い問題」ということは「多くの人が悩んでいる問題」ということになります。逆に「普遍性が低い問題」ということは「ごく一部の人が悩んでいる問題」ということになります。

一方で、縦軸の難易度とは「その問題を解くのに必要な資源の量」を表します。「難易度の高い問題」ということは「解決するのに人・モノ・金といった資源がたくさん要る」ということになります。

逆に「難易度の低い問題」ということは「解決するのに人・モノ・金といった資源が少なくていい」ということを表します。

さて、このように整理された問題を、これまでの社会がどのようにして解決してきたかを考えてみましょう。

資本主義には「最もリターンの高いところに資本が集まる」という原理的な傾向がありますから、市場はまず右下のAのセルから問題を解決します。このようにしてAの領域に取り組む起業家が増えてくると、やがてこのセルの問題の多くが解消されたという状況に至ります。

すでに解決された問題を二番目、三番目に解いても得られる限界リターンは小さくなっていく・・・つまり経済学でいう限界効用逓減が発生しますから、このような状況に至ると、後からやってくる起業家は別の問題に取り組む必要があります。

資本主義と市場原理の限界

さて、このようにして「問題の探索とその解決」を連綿と続けていくと、やがて「問題解決にかかるための費用」と「問題解決で得られる利益」が均衡する限界ライン、図Xにある「経済合理性限界曲線」にまで到達してしまうことになります。

このラインの上側に抜けようとすると「問題解決の難易度が高過ぎて投資を回収できない」という限界に突き当たり、このラインを左側に抜けようとすると「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて回収できない」という限界に突き当たります。

つまり、このラインの内側にある問題であれば市場が解決してくれるけれども、このラインの外側にある問題は原理的に未着手にならざるを得ない、というラインが出てくるのです。

経済合理性の限界曲線

 ミルトン・フリードマン に代表される市場原理主義者は、政府は余計なことはせず、社会に存在する問題の解決は市場に任せておくべきだと主張したわけですが、それは経済合理性限界曲線の内側にある経済的課題だけで、ラインの外側にある社会的課題は原理的に解決できません。

ここでポイントになるのが、市場原理の枠組みの中では「社会問題」は解決されにくい、ということです。なぜなら、人が身銭を切って解決するのは、まずは何をさて置いても個人的問題だからです。

いかにテクノロジーが著しく進歩しても、画期的なイノベーションが起きたとしても、そもそも「その問題の解決に対して人々がお金を払おうとするような問題」、つまり「身銭を切っても解決したい問題」がなくなってしまえば、いくらテクノロジーが洗練されたとしても経済成長はそこでストップすることになります。そして、これがまさに、先進国でいま起きていることだと考えられます。

ここに大きなパラドックスがあります。経済は無限の成長を求めますが、同じ成長率を維持するために必要な成長の増分は複利で増えていきますので、年を追うごとに天文学的な量の成長が必要になります。

一方で、先述したように企業は「大きな問題」から順番に解決をしていきますので、年を追うごとに社会に残存する問題は小さく、難しくなります。求められる成長は年を追うごとに大きくなっていくのに対して、解決することでリターンをもたらしてくれる問題はどんどん小さく、少なく、難しくなっているのです。

これでは最終的にはどこかで破綻することが明白なゲーム、いわゆる「無理ゲー」でしかありません。

クリティカル・ビジネス・パラダイムによる構造転換

しかしもし、残存している「小さな個人的問題」と「大きな社会的問題」を、多くの人が「自分ごと」として捉えるようになったら、何が起きるでしょう。

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