「年長者の社会における価値」の凋落

年長者を敬い、逆らわない傾向=権力格差の数値と、一人当りGDPをプロットしてみると、非常にわかりやすい傾向が現れることは、拙著「クリティカル・ビジネス・パラダイム」をはじめとして、いろんなところで指摘しています。

これを見る限り、日本の成長戦略は非常にシンプルで、要するに「汝、反抗せよ」が鉄則だということになります。まあ、年長者に「反抗せよ」と言われたから反抗する、というのは、本当に反抗的なのか?という疑問もありますが。

とまれ、ここまではいつもの話なのですが、どうも、現在の世界では「生きてきた時間の長さ」がもたらす価値が、どんどん低下しているのではないかと思うのですよね。要するに「年寄りの社会における価値」が減っているのではないか、ということです。

イアン・エアーズの「その数字が戦略を決める」では、ワインの評価や野球のスカウト等、それまで長いこと経験を詰んだ高度な専門家にしか判断できないと思われていた領域において、実はデータとアルゴリズムを用いることではるかに高い精度で見抜けることができることが明白になりつつあることを報告しています。

要因は二つあって、一つは、これまでは入手のできなかったデータが手に入るようになったこと。例えばワインのケースでいえば、ある地点のその年の降水量や天候などのデータを、ワインの生産地やシャトー別に集めることは、以前は難しいのを通り越してほぼ不可能だったのが、インターネットの普及によって非常に簡単になったということ。

二つは、それらのデータを統計的に解析するためのコンピューターの価格が、非常に下がったということです。僕が電通でマーケティング・プランナーの仕事を始めた時、未だ数千サンプルの標本調査を統計にかけることは、調査機関の専門のコンピューターでなければできなかったのが、今やこの計算力はほぼ無料と言えるレベルまで低価格になっています。

逆に言えば、データが手に入って無限に解析できるようになる限りにおいて、経験などというものには木っ端微塵に吹っ飛んでしまうということなのです。

さて、そうなると「経験をたくさんしてきた人=年長者」というのは、いったいどんな貢献役割を組織や社会で担えばいいのでしょうか?

年長者の本質的な価値とはなにか?

ここからは少し視野の時空間を広げて、この問題を考察してみましょう。

権力格差の問題を考えるにあたって、押さえておかなければならないのは、「年長者を敬わなければならない」という社会的規範の程度には民族差が確かにあるものの、それは程度差の問題であって、ラジカルに「年長者を敬う必要はない」と考えている民族もまたない、という点です。

つまり「どんな社会でも、年長者というのは敬うべきだ、と考えられている」ということです。

このような規範がこれほどまでに広い範囲で共有され、長いこと維持されているということは、この規範が進化論的に合理的だったからだ、と考えるべきでしょう。

道徳や規範は人為的に設定、浸透するものではありません。一見すれば、例えば西欧社会に通底しているキリスト教道徳は、人為的に形成されたモラルが浸透した結果のように思われるかも知れませんが、実際には古代以来、数多くの宗教が現れ、独自の規範やモラルを提唱してきた中で、結果的にキリスト教の提示する規範とモラルが淘汰をくぐり抜けて広く普及した、と考える方が自然です。

つまり、道徳や規範というのは、生物と同じように「進化」する、ということです。

ではなぜ「年長者は敬うべきだ」という規範は、淘汰をくぐり抜け、ここまで広範囲に浸透したのでしょう。ここで、そもそも年長者が社会やコミュニティにもたらしていた本質的な価値とはなんだったのか?という問題について考えてみましょう。

年長者の価値の本質=データベース

人類は、誕生から18世紀半ばまでのながいこと「何百年ものあいだ、さしてライフスタイルが変わらない」という時代を過ごしてきました。そのような時代であれば、年長者の持っている過去の経験は、問題に対処する際に頼もしい「知恵」となったでしょう。

若い人たちにとっては「初めて向き合う新しい問題」であったとしても、それは年長者にとっては「すでに経験済みの問題」だからです。どういう対処がうまくいって、どういう対処をするとマズイことになるのかという知識は、コミュニティの存続にとってとても重要だったはずです。

ここに、世界中で長いこと「年長者は敬うべきだ」という規範が共有されてきた理由があります。

つまり、原始時代から情報革命までの長いあいだ、組織やコミュニティにとって、年長者というのは「データベース」だったということです。蓄積される経験や知識の量は、単位時間あたりの入力量が同じであれば、時間の長短によって決定されることになります。

つまり年長者=長く生きている人は、経験や知識の量において、相対的に若い人よりも優れており、だからこそ組織やコミュニティにおいて、年長者は尊重されたわけです。なぜなら、年長者をないがしろにすることで、その組織やコミュニティの問題解決能力は低下することになるからです。

ところが20世紀の後半以降、この価値を大きく毀損する三つの変化が発生します。

年長者の価値を毀損する三つの理由

一つ目は社会変化のスピードです。原始時代から20世紀の前半くらいまでの長い期間、人のライフスタイルや社会の仕組みは、数百年という長い時間をかけて、ゆっくりと変わるものでした。

ところが20世紀の後半以降、たった数十年、場合によっては数年という単位で、大きくライフスタイルが変わるような状況が発生します。このような状況になると、年長者が長い期間をかけて蓄積してきた経験や知識は、組織やコミュニティにとってあまり価値のあるものではなくなります。

なぜなら、向き合う問題が年長者にとっても若者にとっても新しい問題なのであれば、問題解決の能力はむしろ若者の方が優れているからです。

問題解決のアプローチには大きく

  • ランダム(=当てずっぽう)

  • ヒューリスティック(=経験則)

  • オプティマル(=論理最適解)

の三つがあります。

これを経営学者のヘンリー・ミンツバーグが提唱する経営の三要素、つまり

  • アート

  • クラフト

  • サイエンス

に対応させれば、直感や勘を用いる「ランダム」は「アート」に、こ難しい手続きは省いて「いい線を行く答え」を求める「ヒューリスティック」は「クラフト」に、分析と論理によって最適解を求めようという「オプティマル」は「サイエンス」に、それぞれ該当することになります。

このうち、過去に類似した事例があるのであれば、「クラフト」は有効なアプローチだったかも知れませんが、向き合う問題が未曾有のものだとすれば、経験に基づいて解を創出するというクラフトのアプローチは有効に機能しません・・・というよりも、むしろ危険でしょう。

電通や博報堂といった広告の専門家たちが、インターネットビジネスの台頭に対してなんら手を打てなかったのは、過去の同様のプロジェクトでことごとく失敗して煮湯を飲まされてきた、という経験のゆえです。

ということで、そうなると「アート」か「サイエンス」の出番ということになるわけですが、容易に想像できるように、この二つをどれくらいうまく使いこなせるかは、年齢とあまり関係がありません。

というより、むしろ「大胆な直感」や「緻密な分析・論理」というのは、全般に年齢の若い人ほど得意だということがわかっています。

年齢によって変わる「頭の良さ」

知性と年齢の関係については様々な研究がありますが、ここでは代表的なものとしてキャテルの流動性知能と結晶性知能の枠組みを引いてみましょう。

流動性知能とは、推論、思考、暗記、計算などの、いわゆる受験に用いられる知能のことです。先ほどの枠組みを用いて説明すれば、流動性知能というのは、分析と論理に基づいて問題解決をする際に用いられる類の知能だということになります。

一方の結晶性知能とは、知識や知恵、経験知、判断力など、経験とともに蓄積される知能のことを言います。つまり、先ほどの枠組みを用いて説明すれば、経験値や蓄積した知識に基づいて問題解決をする際に用いられる類の知能だということになります。

さて、ここが重要な点なのですが、二つの知能ではピークを発揮する年齢が大きく異なります。図1にあるように、流動性知能のピークは20歳前後にあり、加齢とともに大きく減衰していくことになります。一方の結晶星知能は成人後も高まり続け、60歳前後でピークを迎えることになります。

この図では20歳の平均値をゼロとして、加齢に伴う知能の変化をイメージ図として表しています。

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