なぜアート鑑賞は「人生に効く」のか?
今日は「美意識」について書きます。この記事の読者には拙著「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」をお読みいただいた方も多いと思いますが、出版から7年を経て、より思考が整理された部分もあるので、この機会にあらためて「アート鑑賞がどのようにして私たちの人生のクオリティを高めてくれるのか?」という点について書いておきたいと思います。
観る力を鍛える
感じる力を鍛える
言葉にする力を鍛える
多様性を受け入れる力を鍛える
美意識を鍛える
アート作品の鑑賞は、その行為自体によって得られる感興・感覚こそがもっとも重要な報酬であり、あまりにも功利的・現世的な側面からこの行為を合理化することはあまりお勧めできません。
なぜなら、そのような態度でアート作品に向き合えば、かえってアート鑑賞という行為から得られる豊かなメリットもまた、小さくなってしまうからです。
ということで、アート鑑賞に向かう基本的な構えとして、アート作品に接することで自分のなかに湧き上がってくる感覚そのものを楽しんで欲しいというのが、まずは大前提ということになります。
さて、ではそのような前提を置いた上で、あらためてアート鑑賞から得られる上記のメリットについて、少し説明をしておきたいと思います。
1:観る力を鍛える
アート鑑賞によって得られるメリットの一点目として指摘したいのが「観る力を鍛える」という点です。
私たちは一般に「観る」ということをさも容易な行為のように考えています。しかし、本当に「観る」ということは、そんなに容易なことなのでしょうか。
次のビデオを見て「見る力」についてあらためて確認してみましょう。このビデオでは、6人の学生が出てきてパス回しをします。6人のうち、白いシャツを着た学生3人が出したパスの合計を数えてください。
それではどうぞ!
ビデオの中に回答があるとおり、パスの合計は15回ですが、皆さんは途中で横切るゴリラの存在に気づくことができたでしょうか?
このエクササイズは世界中で行われていますが、統計的に成人のおよそ半分は、画面中央を横切って胸を叩くゴリラの存在に気づくことができません。ぼんやり見ていれば間違いなく気づくはずのゴリラの存在に、バスケットボールの回数を数えるということに集中している人は、気づくことができないのです。
この実験は、私たちが何気なく用いている「観る」という行為が、実は大変に奥行きのある複雑な営みなのだということを感じさせてくれます。
なぜ気づくことができないのか。私たちの脳は「観る」とき、いくつかのシステムを使い分けていることが脳科学の研究から明らかになっています。
図2は、私たちがどのように「注意」を用いているかを説明している図です。私たちがぼんやりとしている時、脳は「デフォルト・モード・ネットワーク」を活用している状態にあります。このとき、注意は「自分の外側の広い範囲」に向けられています。
一方で、私たちがなにかの対象に対して注意を集中するとき、脳は「デフォルト・モード・ネットワーク」のシステムから「セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク」に切り替わります。
そして図中に「Anticorelated」と示してある通り、これらの二つのシステムの活動量は逆相関の関係にあり、どちらかの活動量が増加すると、どちらかの活動量が減少するという関係にあります。
先に示した、バスケットボールのパスの回数を数えるというエクササイズでは、皆さんの「セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク」が起動したことによって、注意の対象が狭い範囲に向けられた結果、画面を横切るゴリラに気づくことができなかった、というわけです。
さて、ではこれらの事実は私たちにどのような洞察を与えてくれるでしょうか?
私たちは通常、自分たちが関わるビジネスにおいて、何らかの評価指標を設定し、それをモニターするということを日常的に行っています。経営者であれば株価を、営業責任者であれば売上を、購買責任者であればコストといった指標について目標値を定め、これが計画的に達成できているかどうかを日々管理していくということをしていくのが、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる人々の仕事だということになります。これらの指標は今日、KPI=Key Performance Indicatorと呼ばれるもので、科学的経営においては必須のものとされています。
さてここまでの説明を読んで何かに気づきませんか?そう、ビジネスにおいて誰もが用いているKPIによる管理というのは、脳に「セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク」の活用を求めるということです。
しかし、先に説明した通り、「セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク」を強く働かせることは、逆に「デフォルト・モード・ネットワーク」の活用を阻害することになります。
「デフォルト・モード・ネットワーク」は「外側の広い対象」に注意を向けるシステムですから、これが阻害されるということは、「予め注意を向けるべきだと考えている対象以外のところで、大きな変化が起きたとき、その変化に気づけない可能性が高い」ということを意味しています。
もちろん、そのような大変化がほとんど起きないという、安定的な社会であれば、それはそれで構わないということになります。しかし、今日の世界はVUCA、つまりV=Volatile=変動的で、U=Uncertain=不確実で、C=Complex=複雑で、A=Ambiguity=曖昧な世界となっています。
これはつまり、いつどのような変化が起きるか、まったく予測がつかない世界になっている、ということです。このような世界において、従前に決められた指標を官僚的に管理しているだけで、大きな変化の予兆を「観ない」ということが、どのように大きなリスクを孕むことになるかは容易に想像ができます。
さらに指摘を重ねていけば、「観る」という能力は情報処理能力のパフォーマンスを左右するもっとも重要な要件だということです。端的に言えば「観る」能力の低い人は、どんなに論理思考やプレゼンテーションに優れていても、知的な成果を生み出すことができない、ということです。
これはそもそも「アタマが良いとはどういうことか」という定義に関わる問題とも言えます。
図3は、私たちが日常あるいはビジネスの場面で行なっている情報処理、つまり知的なアウトプットを生み出すプロセスを記述したものです。知的成果を生み出すためのプロセスは大きく三つのステップによって構成されています。つまり「アタマが良い」というのは、このプロセスを経て出力される知的成果が大きいということに他なりません。
ご覧いただけばすぐにお分かりの通り、例えば論理思考や仮説思考などの「処理=プロセス」に関するステップは二段階目に、プレゼンテーションやスライドライティングなどの「出力=アウトプット」に関するステップは三段階目に位置します。
これらについては数多くの書籍が出されており、またスキルを身につけるためのスクールも開講されているようですが、ではこれらの技術を身につけたからといって、知的生産力は向上するでしょうか。
するわけがありません。なぜなら肝心要の「入力=インプット」が少なければ、どんなに処理能力や出力能力を高めても、何も出てこないからです。
観る力の弱い人は、どんなに処理能力に優れていたとしても、ユニークな知的成果を生み出すことはできません。この点について、私には衝撃的な思い出があります。
電通の大先輩である白土謙二さんと一緒に、フリースブームで湧き上がっている頃のユニクロの店舗を訪れたことがあります。確か平日の夕方だったと思いますが、大勢の顧客で賑わっており、買い物カゴは一杯で、レジには長い列ができていました。
私の感想は「ユニクロの勢いはまだまだ続きそうだな」というものでしたが、店を出てすぐに白土さんはすぐに「山口さん、このブランドは危機的な状況にありますね。近いうちに勢いは止まります。気付きましたか?」と言ったのです。
どう考えてもそのような結論を導けそうもなかった私が素直に「いえ、わかりません。賑わっているし、みんな沢山買っています。どうしてそう思うんですか?」と聞いたところ、白土さんは次のように答えてくれました。
そして白土さんの予測通り、一年と経たずしてユニクロの業績は急落したのです。ここに「観る力」の差が知的推察力にどのような影響を及ぼすかがよく出ています。実は「観る力」は、あらゆる知的生産性の礎をなす最重要の能力なのです。
あらゆる理論はすべて「観て、気づくこと」が契機になっています。アルキメデスが風呂から溢れる水を見て「浮力の原理」を閃いたことはよく知られていますし、ガリレオ・ガリレイは月の満ち欠けを観察して天体が球体であることに気づき、フレミングはペトリ皿に生えたカビを見つけたことからペニシリンを発見しています。
これらはいわゆる「セレンディピティ」と呼ばれる現象ですが、すべての「セレンディピティ」を分解すれば、それは必ず「観て、気づく」ということからスタートしていることがわかります。
私たちが考えるほどに「感性」と「理性」の距離は遠いものではありません。これは過去の「科学芸術の関係」に関する研究からも示唆されています。
例えばミシガン州立大学の研究チームは、
ノーベル賞受賞者
ロイヤルアカデミー
ナショナルソサエティ
一般科学者
一般人
からなる五つのグループに対して、「絵画や楽器演奏等の芸術的趣味の有無」について調査したところ、ノーベル賞受賞者のグループは、他のグループと比較した場合、際立って「芸術的趣味を持っている確率が高い」ことを明らかにしました。具体的には、ノーベル賞受賞者は、一般人と比較した場合、2.8倍も芸術的趣味を保有している確率が高かったのです。
ちなみにノーベル賞受賞者のグループほどではないにしても、高水準の実績がないと参加できないロイヤルアカデミーとナショナルソサエティについては、それぞれ1.7倍と1.8倍となった一方で、一般科学者のグループについては、一般人との違いはほとんど見られませんでした。
この研究結果は、私たちが一般に考えるほど「知的活動」と「芸術活動」というものが、対照的な営みではなく、個人の中にあっても両者は相互に影響を与え合い、高い水準の知的活動を可能にしているのかもしれないという示唆を与えます。
確かに、歴史を紐解いてみれば、ダントツに高い水準の知的生産を行なった科学者の多くが、芸術面でも高い素養を持っていたことを私たちは知っています。
モーツァルトを愛し、どこに旅行に行くにも必ず愛用のバイオリンを携えていたアインシュタインのエピソードは有名ですし、物理学の分野での先端的な研究をしながら、ユーモア溢れるエッセイを数多く生み出したリチャード・ファインマンには高い文学的素養がありました。
歴史を遡れば、ルドヴィゴ・チーゴリにデッサンを習い、水彩画で陰影を表現する技術を身につけていたガリレオ・ガリレイは、だからこそ低倍率の望遠鏡で「月のデコボコ」を発見することができましたし、そういえば、ペニシリンの発見者であるアクレサンダー・フレミングは、自分で培養した絵の具を用いて水彩画を描いていました。
ということで「観る力」は知的生産において、とても重要だということはご理解いただけたと思います。そこで出てくる次の問いは、当然「では観る力」はどのようにして高められるのか、ということになるわけですが、この問いへの答えは「アート鑑賞によって」ということになります。
先述した脳科学の知見を再び確認すれば、私たちは全体観を知覚するための「デフォルト・モード・ネットワーク」と細部を確認するための「セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク」の二つの注意システムを用いているわけですが、アート作品を鑑賞するときは、全体の構図やイメージをチェックするためにはデフォルト・モード・ネットワークを用い、細部の筆遣いや色調を確認するためにセントラル・エグゼクティブ・ネットワークを用いるということで、この両者を行ったり来たりしているのです。
白土さんが店全体の雰囲気を観察して、デフォルト・モード・ネットワークの検知から「なんだか楽しそうじゃない、まるでスーパーのようだ」と感じ、仮説に基づいてセントラル・エグゼクティブ・ネットワークの検知によってカゴの中身やレジで商品をチェックし「ほとんどが男性物だ、それも子供服と下着が多い」ことを確認しており、まさに二つの検知システムを使い分けているのです。そしてこの使い分けを、アート作品の鑑賞によって鍛えるということです。
2001年、エール大学の研究者グループは、アートを見ることによって観察力が向上することを証明しました。「米国医師会報」には、医大生に対して、アートを用いた視覚トレーニングを実施したところ、皮膚科の疾病に関する診断能力が56%も向上したことが報告されています 。
また、同報告書では、直接的な疾病に関する診断能力だけでなく、全般的な観察能力、特に細部の変化に気づく能力が10%向上したこともレポートしています。
現在、多くの分野で人工知能と人間の仕事を奪い合いが議論になっていますが、その一つに医療分野が挙げられます。いずれ医師の仕事は人工知能に取って代わられるようになる、と主張する人は少なくありません。
そのように主張する人に言わせれば、診断に関するビッグデータを蓄積した人工知能に対して、人間の診断能力は到底及ばない、ということらしいのですが、私自身はこの指摘に対しては、医師の仕事を狭い範囲に限定しすぎていると考えています。
確かに、体に表れた具体的な症状や問診情報に基づいて、病気を診断するという能力に関しては、おそらく近い将来、人工知能は平均的な医師の能力を凌駕することになるのでしょう。
しかし、医師というのは別に診断だけを仕事にしているわけではありません。診断を治癒・寛解させることはもちろんのこと、再発防止に向けて生活習慣を変えさせたり、やる気が持続するようなリハビリのプログラムを考えたりするのも、仕事の大事な一部なのです。ここで重要になってくるのが「観察眼」です。
例えば、ちょっとした言葉から出身地を想像し、出身地に特有の食生活習慣と病気との因果関係について仮説を持つ。あるいは病室のベッドの横においてある本や雑誌から、趣味や生きがいを想像し、リハビリのプログラムを考案する。あるいは病室に飾ってある花のしおれ具合や交換の頻度から、家族との関係性についての示唆を得、生活習慣の改善にどれくらい協力してもらえそうかの仮説を持つ。
簡単に言えば、「ちょっとしたヒントから洞察を得る」ということでしかないなのですが、こういったことができるのは人間の医師だけです。人工知能はあらかじめ入力する情報の枠組みを作ってあげないと情報処理できないわけですが、現実に起きうることを全てあらかじめ記述することは非常に難しいため、いわゆる「フレーム問題」が発生することはすでに指摘しました。
入力される情報として定式化されない範囲まで観察し、観察された事象から様々な洞察を得て意思決定の品質を高める。これが、エール大学の研究グループによって指摘された内容のエッセンスです。そしてこれはそのまま、私たちの多くが関わっているビジネスの世界でも同じことでしょう。
2:感じる力を鍛える
アート鑑賞によって得られるメリットの二点目として指摘したいのが「感じる力を鍛える」という点です。私たちはビジネスを行う際に、なるべく感情を排して理性的に意思決定するのが良い、と考えてしまいがちです。しかし、近年の脳科学における研究は、このような考え方が誤りであり、感情はむしろ意思決定において積極的に取り入れられるべきだという示唆を与えてくれます。
神経生理学者のアントニオ・ダマシオは、数理や言語といった「論理的で理性的」な脳機能がまったく損傷されていないにも関わらず、社会的な意思決定の能力を破滅的に欠いた患者を神経生理学者として数多く観察し、適時・適正な意思決定には理性と情動の両方が必要であるとする仮説、いわゆるソマティック・マーカー仮説を唱えました。
ソマティック・マーカー仮説に関するダマシオの研究は、意思決定の品質と美的感覚との関係を考察するにあたって大変重要な示唆を与えてくれるものだと思いますので、ダマシオがこの仮説を思い至った経緯も含めて、ここで紹介しておきたいと思います。
脳神経学者であるアントニオ・ダマシオのもとに、ある患者が紹介されます。エリオットと呼ばれるこの三十代の男性は、脳腫瘍の手術を受けた後、なんら「論理的・理性的」な推論の能力が損なわれていないにも関わらず、実生活上の意思決定に大きな困難を来たし、破滅しつつありました。
ダマシオは、エリトットに対して、特に脳の前頭葉の働きを検査するためのさまざまな神経心理学的テストを行いますが、知能指数をはじめとしてその結果はいずれも正常、というよりも非常に優秀であり、実生活上での意思決定の困難さを示唆するものはありませんでした。
ダマシオは戸惑い、困惑します。
打開策が見出せないまま、一旦はこの問題から離れることにしたダマシオは、やがてエリオットが示していた「ある傾向」が、問題を解く鍵になるのではないかということに思い至ります。その「ある傾向」とは、極端な感性や情動の減退です。
ダマシオは、エリオットがしばしば第三者のように超然とした態度で、自分の悲惨な境遇を、なんの感情も示さずに淡々と語るさまに接し続けるうち、やがてその異様さに気づきます。
そしてまた、悲惨な事故や災害の写真を見ても感情的な反応がほとんどないこと、あるいは病気になる前は愛好していた音楽や絵画について、手術の後にはなんの感情も湧き上がらなくなったことを知るに及び、社会的な意思決定の能力と情動には、今まで見過ごされてきた重大な繋がりがあるのではないか、という仮説を持つに至ります。
その後、この仮説を検証するために、エリオットと同様に脳の前頭前野を損傷した十二人の患者について研究を重ねたところ、全てのケースにおいて「極端な情動の減退と意思決定障害」が等しく起きていることを突き止めました。この発見をもとにしてさらに考察を重ねた上で、ダマシオはソマティック・マーカー仮説を提唱しました。
すこし長くなりますが、ここの記述は、意思決定における「論理と直感」あるいは「アートとサイエンス」という問題を考察するにあたり、非常に重要な立脚点になりますので抜粋しておきます。
ソマティック・マーカー仮説によれば、情報に接触することで呼び起こされる感情や身体的反応(汗がでる、心臓がドキドキする、口が渇く等)が、脳の前頭葉腹内側部に影響を与えることで、目の前の情報について「よい」あるいは「悪い」の判断を助け、意思決定の効率を高めます。
この仮説にしたがえば、これまで言われていた「意思決定はなるべく感情を排して理性的におこなうべきだ」という常識は誤りであり、意思決定においてむしろ感情は積極的に取り入れられるべきだということになります。
ここで一点だけ注意しておきたいのですが、ダマシオは何も、意思決定において、論理的で理性的な推論や思考の能力は意味がない、と指摘しているわけではありません。
ダマシオによれば、私たちは無限にあるオプションの中から、まずはソマティック・マーカーによっていくつかの「ありえないオプション」を排除し、残った数少ないオプションの中から、論理的・理性的な推論と思考によって最終案を選ぶ、というプロセスで意思決定を行なっています。
エリオットを始めとした、前頭前野に損傷を負った人が、いつまで経っても意思決定できなくなってしまうのは、バッサリとオプションを絞り込むことができなくなってしまったからだ、というのがダマシオの仮説です。
ソマティック・マーカー仮説には多くの反論もあり、現時点では文字通り仮説の域を出るものではありません。しかし、ダマシオが彼の著書『デカルトの誤り』で報告している数多くの気の毒な症例は、わたしたちに、社会的な判断や意思決定というものがいかに複雑な営みであり、それを遂行するに当たって、わたしたちが実際に自分たちで認識するより遥かに多くの要因について直感的な考察をおこなっていることを示唆しています。
さて、意思決定において情動が発するソマティック・マーカーが非常に重要だということになると、これをどのように扱えるかで意思決定の品質、ひいては「人生の品質」が変わることになります。
エリオットはなんら論理的・理性的な推論・思考の能力が毀損されていないにも関わらず、幸福な家庭生活とキャリアにおける成功を台無しにしたことを思い出してください。ソマティック・マーカーを文字通り「体が発する信号」と考えれば、示された信号をどれだけ精密にキャッチできるか、というのが大きなポイントになってきます。
しかし、そんなことを言われても、「体や脳が発する信号をキャッチする」なんて、取りつく島がないように思われるかもしれません。でも、ご安心ください。身体が発するソマティック・マーカーを正確にセンスする技術は、今日ものすごい勢いで方法論としてまとめられつつおり、さまざまなメデイアやワークショップイベントで紹介されています。そう、もうおわかりですね。いわゆるマインドフルネスがそうです。
すでにご存知の方が多いと臣生ますが、今日、多くの企業や教育機関において、マインドフルネスに関する取り組みが行われています。グーグルではマインドフルネスがもっとも人気の高い研修プログラムになっており、ウェイティングリストに数百人が並んでいると言われています。
そのほかにもインテル、フェイスブック、リンクトイン、P&G、フォード、マッキンゼー、ゴールドマンサックスといった企業が、社員教育にマインドフルネスのプログラムを導入しています。
また、こういった企業以外にも、ハーバード、スタンフォード、UCバークレーなどのビジネススクールにおいても、マインドフルネスのプログラムが導入されています。
ここであまり馴染みがない、という人のために、改めて簡単にマインドフルネスについて説明しておきましょう。
マサチューセッツ大学医学大学院のジョン・カバット・ジン博士による定義では「評価や判断をすることなく、意図的に、いまこの瞬間に、注意を払うことで、浮かんでくる意識」ということになっています。
なにやらよくわかるような、よくわからないような定義ですが、平たく書けば「過去や未来に意識を奪われることなく、いまの、ただあるがままの状態、たとえば自分の身体にどんな反応が起きているか、どのような感情が湧き上がっているかなどの、この瞬間に自分の内部で起きていることに、深く注意を払うこと」ということになるかと思います。
このような営みが、身体が発する情動にまつわる信号=ソマティック・マーカーを精密にキャッチする能力を向上させるであろうことは、容易に想像できます。
具体的には、マインドフルネスの中心的な取り組みとなる瞑想によって、こめかみの内側の島皮質(とうひしつと読む)という部分と、前頭前野、つまりひたいの出っ張ったところの皮質の厚みが増すことがわかっています。
このうち、島皮質は、体で起きた感覚をキャッチし、その信号を脳の適切な部位にリレーする機能があることから、セルフアウェアネスの向上にとって重要な部位であることが洞察されます。
一方で、前頭前野については、最近の研究から、どうも「美を感じる役割」を担っているらしいことが、近年の脳研究からわかってきています。英ロンドン大神経生物学研究所の石津智大研究員=神経美学=のチームが、「美しさ」に反応する脳の動きを探るため、人種や宗教の異なる22~34歳の健康な男女21人を対象に、機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)を使った実験を実施したところ、人が「美しい」と感じた時には、前頭葉の一部にある「内側眼窩前頭皮質」と呼ばれる領域で、血液量が増加することが確認されました。そしてこの部位はまた同時に、自分の意識や注意をどこに向け、どのようにコントロールするか、つまり意思決定の中枢に関わっていることがわかっています。
エリオットは、手術によって脳の前頭前野を失った結果、個人的・社会的な意思決定の能力を喪失すると同時に、音楽や絵画に感動するという力を失ってしまいました。複雑な状況において適時・適切に意思決定を行う能力は、高度に論理的・理性的なスキルの巧拙にかかっている、というのがこれまでの通説でした。
しかし、ダマシオのソマティック・マーカーに関する仮説以降、そのような状況における高度な意思決定の能力は、はるかに直感的・感性的なものであり、絵画や音楽を「美しいと感じる」のと同じように、私たちは意思決定しているのかも知れないということがわかります。この仮説がもし正しいのだとすれば、絵画や音楽を聴いて「美意識」を高めることは、高度に複雑への意思決定を求められるエリートにとって、必須のトレーニングだということになります。
さて、ここまでソマティック・マーカー仮説に依拠しながら「感じる力」の重要性について述べてきたわけですが、「感じる力」はまた、「問題を見つけ出す能力」とも大きなつながりがあるという点を指摘しておきたいと思います。
この点については後ほどあらためて触れることになりますが、現在の世界では「正解」が過剰化しつつある一方で「問題」が希少化しつつあります。これは、私たちの住んでいる世界が、大きな転換点に差し掛かっていることを示唆しています。
これまで長いこと、私たちの社会では「問題を解決できる人=プロブレムソルバー」が高く評価されていました。原始時代以来、私たちの社会には常に多くの「不安」「不便」「不満」という「問題」に苛まれており、これを解決することが大きな富の創出に繋がったからです。
寒い冬に凍えることなく過ごしたい?ストーブをどうぞ!雨に濡れずに安楽に遠くまで移動したい?自動車をどうぞ!ということです。しかし現在、このような「問題解決に長けた人」は過剰化しつつあり、今後は急速に価値を失っていくことになります。
現在、私たちの社会はモノで溢れかえっており、桁外れに豪奢な生活を送りたい、ということでなければ、さしたる不満もなくいきていけるようになりました。昭和三十年代の日本において、豊かな生活の象徴とされたいわゆる「三種の神器」とはすなわち、冷蔵庫、洗濯機、テレビという家電製品でしたが、今日ではこれらの家電はごくごく当たり前のものとなり、逆にこれらの家電を「持っていない家」をみつけることの方が難しくなっています。
ビジネスは基本的に「問題の発見」と「問題の解消」を組み合わせることによって富を生み出しています。過去の社会において「問題」がたくさんあったということは、ビジネスの規模を規定するボトルネックは「問題の解消」にあったということです。だからこそ二十世紀後半の数十年間という長いあいだ「問題を解ける人」「正解を出せる人」は労働市場で高く評価され、高水準の報酬を得ることが可能でした。
しかしすでに説明した通り、このボトルネックの関係は逆転しており、「問題が希少」で「正解が過剰」になっています。ビジネスが「問題の発見」と「問題の解決」という組み合わせで成り立っているのであれば、今後のビジネスではボトルネックとなる「問題」をいかにして発見し提起するのか、という点がカギになるということです。
ではどのようにすれば「問題」を見つけることができるのでしょうか。一つ間違いなく指摘できるのは「違和感」の重要性です。何気ない日常を「そのようなものだ」と無関心に眺めていれば、問題を見つけることはできません。ここでもし、自分が感じている微妙な違和感をキャッチし「なぜ、こうなっているのだろう」と考えることができたら、それは「問題発見」の大きなきっかけになるはずです。
ソマティック・マーカー仮説について説明した際のエリオットの症状を思い出してください。エリオットは手術後、社会的な意思決定の能力を決定的に失うと同時に、悲惨な事故や災害の映像を見ても感情的な反応が起きなくなってしまいます。「あってはならない」状況を目にしても違和感を覚えることができない状態になってしまったわけです。
私たちの世界が、非の打ち所のない理想的なものになっている、と考える人は一人もいないはずです。もし、この世界が理想的な状況にあるのではないとしたら、希少化したとはいえ、この世界にはまだまだ修正すべき問題はたくさんある、ということになるはずです。
しかし、私たちは「スジの良い問題」をなかなか見つけられずにいます。問題は、当たり前の日常的風景の中から、どれだけ「なぜ、そもそもこうなっているのだろう。本来はこうあるべきではないか」と考えるきっかけとなる「違和感」をどれだけ精密にキャッチできるかどうかです。そしてこの「感じる力」を鍛えるために、アート鑑賞はとても良いエクササイズだということです。
3:言葉にする力を鍛える
アート鑑賞によって得られるメリットの三点目として指摘したいのが「言葉にする力を鍛える」という点です。ビジネスパーソンにとって、「言葉にする力」は想像以上に重要なものです。
なぜなら、マネジメントとは本質的に「言葉のやり取り」でしか運営できないからです。私は前著「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」において、世界中の企業のリーダー育成について調査しましたが、少なくない数の企業が「詩」を用いたトレーニングを実施していることに驚かされました。
おそらく、多くのビジネスパーソンにとって、「詩」はアート以上に縁遠い存在でしょう。私自身もそのように認識していたのですが、「なぜ、詩なのか」という筆者の質問に対する回答に接して、ああなるほど、と思いました。確かに、リーダーシップと「詩」には非常に強力な結節点があります。
それはなにかというと、両者ともに「修辞が命である」という点です。修辞というのは、平たく言えば「文章やスピーチなどに豊かな表現を与えるための一連の技法のこと」で、英語で言えばレトリックです。
言うまでもなく、リーダーには「人の心を動かすコミュニケーション」の能力が欠かせませんが、そのような能力を獲得するために、修辞を学ぶというのは非常に有効なのです。そしてこの修辞の力を鍛えるのに、鑑賞した美術作品を言葉で表現してみる、自分の中に湧き上がっている感情を言葉にしてみるというのはとても有効なのです。
なかでも特に重要なのは「比喩」を用いて表現してみる、ということです。たとえば、私の大好きな詩の一つに、谷川俊太郎さんの「朝のリレー」という詩があります。
この詩を読むと、私たちは、何ごとのない毎日の生活の中に埋没している自分たちが、なにか大事な役割を相互に分担しているかのような、不思議な清々しいイメージを持ちます。
そのイメージは言うまでもなく、リレーという競技、すなわち「信頼できるメンバーとチームを組み、一人一人が全力で走ったのち、仲間にバトンを託していく」という競技のイメージによって喚起されています。
このような「比喩の力」は、多くの優れたリーダーが残した名言にも、見て取ることができます。たとえば、「美意識」を執筆していた2017年には、米国で大きな問題となっていたトランプ大統領の移民政策に対して、アップルのティム・クックCEOは、マーティンルーサーキング牧師の「私たちは違う船でやってきた。しかし、今は同じ船に乗っている」という言葉を引用して、この政策を支持しないことを明言しています。指摘するまでもありませんが、キング牧師は、人種政策で割れる米国を「同じ船」という比喩で表現しているわけです。
同様に、欧州が東西に引き裂かれる様を「鉄のカーテン」と表現したウィンストン・チャーチル、再生計画を「ルネッサンス」と名付けたカルロス・ゴーン、瞳の輝きを「一万ボルト」と表現したアリスの堀内孝雄などなど、「人のこころを動かす」表現にはいつも優れた比喩が含まれています。
さて、このように書くと、もしかしたら批判があるかも知れません。その批判というのは、つまり「比喩が詩においてもリーダーシップにとっても、修辞技法という点で重要だということはわかった。
しかし、それはあくまで文章表現上のテクニックに過ぎず、であればゴーストライターなどの専門家に頼めばいいだけの話であって、多忙なエグゼクティブに詩を読めなどというのはナンセンスではないか」というものです。
確かに、修辞のセンスが、スピーチなどの公式なコミュニケーションの場だけで発動されるのであれば、専門のコピーライターをスピーチライターとして雇えばいい、ということになります。
しかし、どうも修辞の能力は、そのような狭い範囲のみで発動されているわけではなく、私たちの知的活動のクオリティを左右する極めて重要な要素らしいのです。
カリフォルニア大学バークレー校の言語学教授であるジョージ・レイコフは、それまで表現技法の問題として、言語学の中では傍流として位置付けられていた「比喩」を、私たちの知的能力の中枢を司るものだと主張しています。
確かに、私たちは、ある複雑な状況を理解するときに、しばしばメタファーを用います。クライアント企業の役員間の力学を表現する際、「彼はリア王だ」といえば、複雑な状況説明なしにそれで通じてしまうでしょうし、ある個人の強み・弱みを分析して「エンジンは強力だがブレーキが壊れている」と表現すれば、それで通じてしまうでしょう。
情報処理は一般に、インプット→プロセッシング→アウトプットという流れをとりますが、その全ての段階において、メタファーを有効に活用することで知的生産を効果的・効率的に行うことが可能だというのが、レイコフの指摘です。
優れたリーダーが、優れた比喩=メタファーを用いて、最低限の情報で豊かなコミュニケーションを送るということは、読者のみなさんも直感的に理解していると思います。先ほど紹介した谷川俊太郎さんの氏が喚起するイメージを、「リレー」というイメージを用いることなく伝えようとすることは、ほとんど不可能ではないかとすら思います。リーダーの仕事が人々を動機づけ、一つの方向に向けて束ねることであるとするならば、リーダーがやれる仕事というのは徹頭徹尾「コミュニケーション」でしかない、ということになります。
となれば、少ない情報量で豊かなイメージを伝達するための修辞法の根幹をなす「比喩の技術」を学ぶのは、とても有効だということになり、「優れた比喩」の宝庫である「詩」を学ぶことは、とても有効なリーダーシップのトレーニングになる、ということです。
あらためて考えてみれば、そもそも「マネジメント」という営みは、すべて「言葉」を用いて行われている営みです。しかし一方で、言葉には大きな限界もまたあります。なぜなら、私たちが日常的に用いている「言語」はとても目の粗いコミュニケーションツールだからです。
したがって、私たちは、自分の知っていること、感じていることを100%言語化して他者に伝えることが、原理的にできません。つまり「言葉」によるコミュニケーションでは、つねに「大事ななにか」がダラダラとこぼれ落ちている、ということです。
20世紀に活躍したハンガリー出身の物理学者・社会学者であるマイケル・ポランニーは「我々は、自分が語れること以上にずっと多くのことを知っている」と言い表していますね。今日では、この「語れること以上の知識」を私たちは「暗黙知」という概念で日常的に用いていますが、言葉によるコミュニケーションではつねに、この「こぼれ落ち」が発生していることを忘れてはなりません。
一方で、先ほど指摘した通り、マネジメント・・・というよりも人間の活動は基本的にすべて言葉を通じたコミュニケーションによって営まれています。これはつまり、どれだけ豊かに言葉を用いる能力があるか、どれだけ豊かにイメージを言葉にする力があるかで、その人のコミュニケーションの能力が変わり、結果的に人と協働する、あるいは人を率いる能力の品質もまた大きく変わってしまうということになります。
アート作品を言語化して説明する、あるいは自分の心の中に沸き起こる感興を言語化して説明するというのは、とても繊細で微妙な言葉の使い方を要請します。このようなエクササイズを繰り返すことで、そのひとの持っている「言葉でイメージを伝える能力」が高まることになります。
4:多様性を受け入れる力を鍛える
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