「目標数値」ではなく「意味」を与えよう
ニュータイプ:意味を与え、動機付ける
オールドタイプ:目標値を与え、KPIで管理する
もし船を造りたいのなら、男たちをかき集め、木材を集めさせ、のこぎりで切って釘で留めさせるのではなく、まず「大海原へ漕ぎ出す」という情熱を植え付けねばならない。
ケインズの予言は本当に外れたのか?
20世紀前半に活躍した英国の経済学者、ジョン・メイナード・ケインズは、1930年に発表した小論文「孫の世代の経済的可能性」(山岡洋一訳「ケインズ説得論集」)のなかで「将来の人は週に15時間しか働かなくなる」と予言しています。
すなわち、技術が進歩するにつれて、単位労働時間あたりの生産量は増えるので、必要なニーズを満たすために働かなければならない時間は次第に減り、やがてはほとんど働かなくていい社会がやってくるだろう、と予測したわけです。
もちろん皆さんもよくご存知の通り、この予言は外れることになったわけですが、なぜ、かくもシンプルなロジックに基づいた予言が外れることになったのでしょうか。
経済学者が大筋において合意している結論は、ケインズの未来予測は「生産性の継続的な向上」という点では驚くほど的確だったが、「ニーズの総量は一定である」という前提において誤っていた、というものです。
確かに、労働時間が百年前をほとんど変わっていない現状を踏まえれば、そのような結論が導かれることになるでしょう。しかし、私は敢えてその結論に対して異論を提示したいと思うのです。その異論とはつまり「ケインズの予測は本当に外れたのか?」という問題です。
確かに、表面的には先進国の労働時間はケインズの時代とほとんど変わっておらず、1日に三時間しか働かない社会が到来する、というケインズの予測は外れたように思います。しかし、このように考えることはできないでしょうか?
すなわち、ケインズの予言は実現した。有史以来、人間を悩ませ続けてきた「不安・不便・不満」を解消するために重要な労働は、1日に三時間程度で済むようになった。残りの時間は、実質的な価値を生み出さない「虚業的労働」に過ぎない、という考えです。
このような仮説は唐突にひびくかも知れません。しかし、ケインズのこの論文を噛むようにして読んでいくと、当のケインズ自身もこのような状況が発生することを予測していたように感じられるのです。抜粋を引きましょう。
しかし思うに、余暇が十分にある豊かな時代がくると考えたとき、恐怖心を抱かない国や人はないだろう。人はみな長年にわたって、懸命に努力するようしつけられてきたのであり、楽しむようには育てられていない。とくに才能があるわけではない平凡な人間にとって、暇な時間をどう使うのかは恐ろしい問題である。
この文章を読むと、ケインズ自身も、一日三時間労働が実現すると、余暇に耐えられない多くの人々によって、余った時間を埋め合わせるための「実りのない仕事」が生み出され、そして多くの人は、それらの仕事のあまりの「実りのなさ」に耐えられず、精神を病んでしまう、ということを予測していたように思います。
これが、いわゆる「クソ仕事の蔓延」という問題の背景ですが、このトレンドはどうも全世界的に進行しているようで、たとえばロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの社会人類学教授:デヴィッド・グレーバーは、2018年に著した書籍「Bullshit Jobs: A Theory=クソ仕事:その理論」(邦訳未刊行)において「世の中の仕事の過半数は無意味なクソ仕事だ」と指摘しています。
モチベーションが経営資源として希少化している
前節で指摘した点、つまり私たちの労働の多くが実質的な価値を生み出さないクソ仕事に陥っている、という仮説は様々な組織研究・調査からも示唆されています。例えば社員意識調査の大手であるギャロップ社によると「仕事に対して前向きに取り組んでいる」と答える従業員は全世界平均で13%しかいません[1]。
また、日本のリクルート社による「働く喜び調査」でも、「働く喜び」を感じていると答えた人は全体の14%となっており[2]、その他の調査も含めてまとめれば、およそ8割から9割の人は、自分の仕事を「どうでもいい」と考えており、「意味」や「やりがい」を見出せていないということが示唆されています。これはつまり、現在の企業では「モチベーション」が経営資源として希少化している、ということを意味します。
このような世界にあって、仕事の「意味」の形成をないがしろにしながら、目の前の仕事で設定されたKPIの数値を高め、生産性を上げようとするのは典型的なオールドタイプの思考様式と言わざるを得ません。一方で、仕事に「意味」を与え、携わる人から大きなモチベーションを引き出すのがニュータイプということになります。
人のモチベーションは可変量関数
意味を語らず、ひたすらにKPIに代表される目標値を振りかざして部下を叱咤するオールドタイプと、目的と意味を語り、部下のモチベーションに訴えるニュータイプとでは、組織から引き出せるパワーに大きな差が生まれることになります。
なぜなら、人のモチベーションの量は「意味合い」によって大きく変わるからです。経営資源として挙げられるヒト・モノ・カネのうち、ヒトにだけあってモノとカネにはない最大の特徴は、その「可変性」にあります。神戸大学で長らく経営学の教鞭をとった経営学者の加護野忠男は次のように指摘しています。
資本と比べた労働の固有の性質は、価値の可変性にある。
モノもカネも一旦確定すれば、その後で量が変わるということはありませんが、ヒトの能力はそれを導くリーダーの「意味」の与え方によって簡単に増減します。
リーダーが「意味」を与えることによって、ヒトというリソースから大きな能力を引き出すことができるのだとすれば、そのようなリーダーには大きな経済的価値が生まれることになります。
現在、日本企業でもいわゆる「人材アセスメント」を導入する企業が増えています。一般的な人材アセスメントではコンサルタントによるインタビューや360度評価を通じて対象となる個人のコンピテンシーを数値化し、その結果に基づいて登用・育成・配置の意思決定を行います。
このアプローチは非常に合理的に聞こえるかも知れませんが、往々にして「合理的なアイデア」は「単なる浅知恵」であることが多いので注意が必要です。決定的なのは、個人の持つ能力を「静的なもの」として考えている、その世界観です。
これがなぜ問題かというと、人が発揮する能力やコンピテンシーは、その人に対して与えられた「意味」によって大きく変わってしまう、つまり文脈依存的で非常に「動的」なものだからです。なんらの「意味」も与えられていない状態で動機付けされていない人を評価すれば、その人が発揮している能力やコンピテンシーが低く評価されるのは当たり前のことです。
昨今では「部下がだらしない、使えない」と嘆いている管理職がどこの組織でも見られますが、これは典型的なオールドタイプの思考モデルであり、本当に嘆くべきなのは「部下を動機づける『意味』が与えられない」自分の不甲斐なさであるべきです。
新約聖書は「意味のパワー」を示している
意味を与えると人は豹変します。これをよく示しているのが新約聖書福音書の物語です。福音書の物語には様々な示唆がありますが、もっとも重大な示唆の一つとして「意味を与えられた人は豹変する」という点が挙げられます。ペテロをはじめとしたイエスの十二人の弟子たちは、イエスの生前においては全く見るべきところのない意気地なしの集団にすぎません。
弟子の中で一番偉いのは誰かを口論してイエスにたしなめられながら[3]、実際にイエスが捕縛され、処刑される状況になってみると誰一人としてイエスを助けようとせず、スタコラサッサと逃亡してしまう[4]。まさに「残念な人たち」の集団です。
ところが、この弟子たちは、イエスの復活・昇天後に、炎のような強さを持った伝道師集団に豹変します。彼らの働きがなければ、当時、禁教とされていたキリスト教がローマ社会において広がることはなかったでしょうし、もしそうなっていれば今日のこの世界の様相もだいぶ異なったものになっていたでしょう。
要するに、この「情けない弟子たち」の働きによってこそ、キリスト教は世界宗教としての礎を得ることになったわけですが、しかし、実際に布教の成果を見届けた弟子はおらず、ヨハネ以外の11人は皆、槍で貫かれる、逆さ磔にされる、崖から突き落とされる、棍棒でぶん殴られるなど、悲惨な拷問を受けた末に殉教しています。
彼らが拷問を受けた理由はいうまでもなく、禁教とされたキリスト教を棄教せず、信仰し続けたからです。あれほど惰弱で蒙昧だった「情けない弟子たち」が、過酷な拷問を受けながらも信仰を捨てず、福音を伝えることに命をかける「炎の伝道師」へと豹変したのです。
なぜイエスの弟子たちは「豹変」したのでしょうか。
それは、自分たちの人生に「意味」を見出したからです。その意味とはつまり「キリストの福音を世界に述べ伝える」という意味です。その「意味」が与えられただけで、彼らの能力や行動は非連続に変化しました。別にビジネススクールに通ったわけでも、リーダーシップワークショップに参加したわけでもありません。
ただ「意味」を見出したことによって、彼らは能力も行動も豹変したのです。イエスは彼らに「意味」を示すために、自らの身を犠牲にしたということもできるでしょう。このエピソードはそのまま、意味を与えられるリーダーが、いかに他者から大きなエネルギーを引き出すことができるかを示しています。
モチベーションという資源
他者からモチベーションを引き出すには「意味」が重要であり、「意味」の与え方によって人の働き方には雲泥の差が生じてしまうということになれば、この「意味」を引き出すニュータイプの能力こそが組織の競争力を左右することになります。
なぜなら、今日の市場においては「ヒト」「モノ」「カネ」のうち、もっとも希少なものが「ヒト」になっているからです。これは現代という社会を特徴付ける、もっとも重要な点の一つだと言えます。
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