#062 自己実現した人は友達が少ない
エイブラハム・マズローの欲求五段階説については、すでにご存知の方が多いと思います。あらためて確認しておけば、マズローは人間の欲求を次の五段階に分けて構造化しました。
第一段階:生理の欲求 (Physiological needs)
第二段階安全の欲求 (Safety needs)
第三段階:社会欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
第四段階:承認(尊重)の欲求 (Esteem)
第五段階:自己実現の欲求 (Self-actualization)
マズローの欲求五段階説は、皮膚感覚にとても馴染むこともあって、爆発的と言っていいほどに浸透したのですが、実証実験ではこの仮説を説明できるような結果が出ず、未だにアカデミックな心理学の世界では扱いの難しい概念のようです。マズロー自身は、これらの欲求が段階的なものであり、より低次の欲求が満たされることで、次の段階の欲求が生まれると考えていたようですが、この考え方も後にあらためるなど、提唱者自身の言説にもかなりの混乱が見られます。
確かに、少なくない数の成功者は、功成り、名を遂げた後で、セックスやドラッグにはまり込んでいくことを私たちは知っています。セックスというのはこの枠組みで普通に解釈すれば、第一段階の「生理の欲求」ということになりますから、マズローが当初主張した「欲求のレベルがシーケンシャルに不可逆に上昇していく」という仮説は、ちょっと考えただけで誤りだということがわかります。
このように書くと、もしかしたら「いや、それはマズローの言う意味での“生理の欲求”とは違うんだ」といった反論があるかも知れませんが、そもそもマズロー自身による「欲求の定義」は、もとから曖昧な上に、時間軸で揺れ動いているようなところがあるので、こういった議論にはあまり意味がないように思います。
僕はいろんなところで繰り返し言っていますが、別に学者でもない私たちのような人間が、哲学や社会学や心理学を学ぶ目的はただ一つ、「よく生きる」ためですから、マズローの欲求五段階説の正しい解釈を形而上学的に考えて言葉をコネクリ回すよりも「それがどのように役立つのか」をプラグマティックに考えるほうがはるかに重要です。
マズローは、欲求第五段説の最高位にある「自己実現」を果たしたと、マズロー自身がみなした多くの歴史上の人物と、当時存命中だったアインシュタインやその他の人物の事例研究を通じて、「自己実現を成し遂げた人に共通する15の特徴」をあげているんですね。これがなかなか興味深い。
現実的であり、過度の楽観や悲観を避ける
人間性のネガティブな部分も受容する
自然で 自発的である
哲学的・倫理的な基本的課題に関心を払う
独りでいることを好む
自律的であり、外部からの支援を求めない
感性が新鮮で驚きや喜びをなん度も感じる
恍惚と畏怖を同時に味わう神秘的な体験を有する
時には苛立っても人類一般に対する共感・愛情を持つ
少数の人たちと深い心理的なつながりを持っている
民主的であり階級・国籍・民族・権威にとらわれない
非常に倫理的で明確な道徳基準をもっている
ユーモアのセンスがある
子供のような天真爛漫な創造性を有する
文化の内部でうまく振る舞いながら、組み込まれることを拒否する
さて、これを読んで皆さんはどう思われたでしょうか?
私が注意を引かれたのは「5: 独りでいることを好む」と「10:少数のひたたちと深い心理的なつながりを持っている」です。これら二つの項目を読めば、マズローが「自己実現的人間」とみなす人は、孤立気味であり、いわゆる「人脈」も広くないということになります。これは、私たちが考える、いわゆる「成功者」のイメージとは、かなり異なる人間像ですよね。
私たちは一般に、知人や友人は多ければ多いほど良い、と思う傾向があります。確かに、友人や知人の数が多ければ、たとえば仕事で声をかけてもらうとか、あるいは何かのときに助けてもらうことは、より容易になると思われます。いわゆる「社会資本」そのものですからね。
しかし、マズローの考察によれば、成功者中の成功者である「自己実現的人間」は、むしろ孤立ぎみで、ごく少数の人とだけ深い関係をつくる、と言っている。このマズローの指摘は、ソーシャルメディアなどを通じてどんどん「薄く、広く」なっている私たちの人間関係について、再考させる契機なのではないかと思うんですよね。
実は、洋の東西を問わず、同様の指摘をしている人がけっこういるんですね。たとえば中国戦国時代の思想家、荘子に次のような言葉があります。
醴とは甘酒のようなべったりと甘い飲み物のことです。つまり、荘子は「モノゴトをわきまえていない小人物の付き合いはベタベタとしており、その逆である君子の付き合いは、水のようにあっさりとしている」といっているわけです。
さらに「荘子」では、以下のように続きます。
つまり、君子の交友は淡いからこそ続き、小人の交友は甘いがゆえにすぐに終わる。必然性もなく、ただ一緒にいるために一緒に居るような付き合いはすぐに終わるのだという、まあかなり意訳していますが、そういうことを言っているわけです。
小人の交わりというのは「故無くして立つ」わけで、そこには「自立」という観点がありません。つまり、お互いがお互いを依存している状況になっていて、そこから抜け出せずにベタベタと付き合っているということです。
心理学ではこのような状況を「共依存」という概念で整理します。つまり小人というのは、自立できず、他者に依存し続けることでしか自己の存在を確認できないという人なのです。表面的には「他者のため」という名目で、本人自身もアタマっからそう自覚しながら、実はうちに自己本意な存在確認の欲求を秘めている。これが共依存の関係です。
話を元に戻せば、私たちの「広く、薄い」人間関係もまた、そのようになっていないか。マズローによる「自己実現を成し遂げた人は、ごく少数の人と深い関係を築く」という指摘は、今改めて、私たちの「人のネットワークの有り様」について考えるべき時が来ていることを示唆しているように思えます。
日本文化の人間関係は甘えにもとづているので、人がこちらに甘えてきたのに対してこれを拒否すると、今度は自分が人に甘えることができなくなり、その結果、世間様との付き合いの絆が切断されてしまうのではないかと言う恐れを抱くことになる。けれども、あらためて考えてみるとこれは事実に反しています。というのも、人生というのは拒否の集積によって成り立っているからです。
いま、この記事を読んでいるみなさんは、今ある場所に居て、ある衣服を身につけ、どこかの職場や学校に所属し、どこかに居住し、家族や様々な友人・知人関係を持つ存在として、この本を読んでいます。そして、そういった特徴・属性のほとんど(あえて全てとは言いません)は、地球上にあるすべての選択肢の中から、他のすべてを拒否して、たった一つだけ皆さんが選択した結果なわけです。
人があてがってくれた選択、あるいは人から強要された選択に従って生きていたのでは「自分の人生を生きる」ことにはなりません。たとえ最終的に失敗してしまっても良いので、自分で「これだ」と思える選択を生きて行くのが人生です。つまり、人生というのは「選択」であり、「選択」とは他に無限にある可能性の中からほとんど全てを拒否して、たった一つだけの「これだ」を選んでいくということなのです。
人は拒否すべきではない、という信条は人生の可能性を食いつぶす、非常に危険な信条です。この信条は、自分の人生を食いつぶすのに加えて、さらに「平気で拒否して楽しく生きている人を恨む、妬むようになる」という大変危険な副産物も生み出します。人から拒否されたことで激しく腹を立てている人がいますが、そういう人は「人は拒否してはならない」と自分勝手に思い込んでいる信条を、他人もそうすべきである、と押し付けているのです。
「拒否」という言葉には一般にネガティブなイメージが付きまといます。しかし、芸術や企業経営の枠組みで考えてみれば、拒否は必ずしもネガティブなものではなく、ポジティブなものを生み出すためには必須のものと言うこともできます。
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