目に見えない労働時間はいくら?換算方法と具体例
ある日、ピカソが歩いていたら、大ファンだという子供に「絵を描いてほしい」とせがまれた。
ピカソは30秒で絵を描き、「1万ドルだよ」と言いながら渡した。
子供が「30秒で描いた絵がどうして1万ドルもするの?」と尋ねると、ピカソはニッコリと笑って「30秒じゃないよ。この絵を描くために30年と30秒かかったんだ」と答えた。
実際にはこの話は別の人物のエピソードらしいが、似たような話は世の中にいくつもある。
例えば、ドラゴンクエストの「序曲」を作曲したすぎやまこういち氏は、「メロディを作るのに5分かかったが、それを作れるようになるまで54年かかったのでこの曲の作曲時間は5分+54年」と言っている。また、あるエンジニアが、大企業が手を焼いた何億もする機械を、チョーク一本で「この部品を換えろ」と指示を記すだけで修理し、「チョーク1本・1ドル、その場所を見抜いた知識・49,999ドル、計5万ドル」という請求書を切ったという話もある。
真偽はともかく、これらの逸話が示しているのは、アーティストやエンジニアのような可視化できない労働に従事する人々の対価が軽んじられがちで、ときには費やした労力に見合っていないと感じることが多いという現実だ。
♦︎この点に関して、少なくとも舞台芸術に関する限り、フランスには明確に法的に定められた計算方法がある。知っていて損はないと思うので、今日はここに記しておこうと思う。
フランスには「舞台芸術者のフリーランス」という制度がある。ざっくり言えば、「舞台芸術家」という職種が制度によって明確にカテゴライズされているということだ。
ここには、舞台で仕事をするあらゆる人が含まれる。ダンサー、俳優、パフォーマー、音楽家など、舞台に立つ者はもちろん、照明や音響の技術者も舞台芸術家として認められる。劇場だけでなく、病院のロビー、お城の庭での戦国時代のパフォーマンス、お祭りの特設舞台での太鼓演奏など、舞台芸術に関わるものすべてがこの制度の対象となる。
♠︎では、具体的な給与の計算方法はどうなっているのか?
フランスでは、舞台のパフォーマンスが何分であろうと、一回の公演で「12時間働いた」とみなされる。漫才コンビが5分喋っても、ダンサーが20分踊っても、僕が60分の公演をしても、すべて12時間の労働とカウントされる。この1契約単位を「カッシェ(元々は契約書の封印の意味)」と呼ぶ。つまり、1公演で12時間、2公演なら24時間という計算だ。
2025年1月現在、フランスの最低賃金は1時間11.88ユーロなので、12時間分だと最低でも143ユーロ(約2万3,000円)の手取りになる。アーティストではない人が聞くと、「実働1分で1万5,000円!?」と思うかもしれないが、例えば女優の場合を考えてみると、前日から食事に気をつけ、浮腫みを防ぎ、朝はシャワー、化粧、ヘアメイク、爪の手入れ、ストレッチをして、数日かけて台詞を覚える。ダンサーも技術者も、それぞれの準備があり、トータルすると12時間を超えることがほとんどだ。そのため、平均的な労働時間を考慮し、12時間で計算するというルールになった。
もちろん、これは最低賃金の話であり、交渉次第でギャラは上がる。
♥︎さて、ここまで聞くと「普通の人は1日8時間労働なのに、12時間でカウントしたら、たくさん公演をこなす人は滅茶苦茶長時間働いたことになるのでは?」「ストレッチは分かるけど、毎日爪を切るわけではないし、メカニカルチェックも一度仕込めばそんなにやらないのでは?」という疑問が湧くかもしれない。
この点についても、制度はしっかりと考えられている。
12時間を1単位としたカッシェは、3日以上連続すると8時間換算に短縮される。つまり、「毎日爪を切るわけではない」というような細かい部分もすでに考慮されているのだ。仕事日が飛び飛びになれば、また12時間に戻る。雇用する側にとっては、2回の公演を金曜日と日曜日に2公演公演をする12×2カッシェ=24時間よりも、金、土、日と3日連続で公演をする8×3カッシェ=24時間にしたほうがコスト的に有利になるわけだ。
さらに、このカッシェには年金、保険、失業手当などの社会保障がすべて含まれている。そのため、舞台芸術家のフリーランス制度といっても、国が舞台芸術家をまとめて抱える「一つの大きな会社」のような仕組みになっている。
そして、もう一つ注目すべきポイントがある。
時間が決められていることで、ブラック労働の防止につながるということだ。舞台の現場では「あと少し粘りたい!」という場面が多々あるが、こうした場合、「2カッシェ目を契約してくれるなら喜んで!」というのがアーティスト側のスタンスになる。作品は、労働者と雇用側の双方の協力があってこそ成り立つものなのだ。
♣︎どうだろうか?
歴史的に労働組合が強く、労働者の権利を明確に主張してきたフランスらしい制度だと感じる。
ただ、こういった制度を日本にそのまま導入すればいい、という単純な話ではない。税制や社会制度が根本的に違うため、実現は難しい部分もある。さらに、舞台芸術の形態が多様化していることや、この制度を悪用する大手企業の存在などもあり、将来的には変化していく可能性もある。
それでも、この制度の持つ意義は大きい。特に、目に見えない労働時間の概念を明確に可視化し、舞台芸術に関わるすべての人の地位を向上させる点だ。
例えばこの様な方向に進みたいという若者達が「舞台芸術」に接した時に、どうしても「華やかで特別な世界」という印象を持たれがちだが、実際には舞台の裏側では、12時間を1単位としたみんなの共同作業で作品を作っている、ということを知るだけでも、舞台芸術という職業の見え方が変わるのではないかと思う。
最後は少し話が広がってしまったが、可視化できない労働の対価という点に立ち返ると、こうした「目に見える労働時間以外の頭の中での労働時間」を、もっと当たり前に評価する基準があってもいいのではないかと思う。