俺のダメなところを建設的にぶつけろ
1年半ほど前から友人と2人で定期的にラジオまがいのトークを行っている。
「マグヌスの熊」というタイトルだ。
これは普段の会話を録音してアーカイブとして残していくと未来の自分はどう思うのか、という実験的取り組みである。
30分のトークを60本以上投稿してきた。
先週、先々週と趣向を変えたテーマに挑戦してみた。
「俺のダメなところを建設的にぶつけろ!」
普段は言わないお互いの欠点を言ってみよう。
ただしあくまで建設的に。
これはある種の友情の帰結なのだ。
私が12年来の友人からダメなところをぶつけられた回を振り返ってみる。
私のダメなところ。
私自身が思っているところは
・見栄っ張り
・かっこつけ
・虚栄、虚飾、虚無
私はいいかっこしいだと思うし、カッコ悪いことは嫌だと思っている。
本当は幼くてダサいやつだと自覚があるが、そう見られたくないと思っている。
それは相対的な評価に縛られているということかもしれない。
彼にはまず
「死ぬほど頑固。俺がこうと言えばこう。結構会話の中で自分の意見に着地させる事が多い」
と言われた。
痛いところを突かれたぜ、と思った。
私は自分の中の正義を諦められない事がよくある。
ただし、誰でも彼でも否定して論破しようとしているわけではないのはわかってほしい。
「その場で核心を突かれるとムッとする。」
これも心当たりがある。
私は自分に対して自分の中の筋を必ず通したいと思っている。
だから筋を通せないかもしれないと感じると「どうすれば通せる」と全力で脳を回す。その時のフリーズが言わば「ムッとしている」ように見えるのだろうし、事実ムッとしていることはよくある。
私は自分にとって許せないことがあると戦おうとする。
戦うことに一種の美学を感じているのだ。
一応弁解するが、これは当たり構わずキレ散らかしたり、他者を否定せずにはいられない危ないやつだという事では断じてない。
自分の筋をぶつけることで相手のことをわかりたい、そしてわかってほしいという私なりの誠意なのだ。
過去私の未熟ゆえに他人に迷惑をかけたことは何度もあり、今思えば大いに反省していることはたくさんある。
言われて気付いたが、その割には今でも戦うことを選択し続けている。
これは因果か性か。性だと思う。
友人は他者と戦うことではなく、自分を強くしたいと思うと言った。
これを聞いた時、私はその方がかっこいいなと思った。
グッと感情を抑え込み、
他者に打ち勝てるまで自分自身を研鑽する発想に至る。
かっこいいではないか。
「俺は戦うことから逃げてぶつかりにいってない。そこに情けなさや恥ずかしさがある。でも君は戦うことを選べる」
私の欠点を反転させてくれた。
絶対的な強さを追求することは彼の美徳だ。
一方、戦うことで相対的な強さを求めることもまた美徳だと解釈してくれるのは付き合いの長い友人の如何ともしがたい優しさである。
「俺はかっこいいと思っている。でも建設的に言う回だから俺のわずかに残った社会性の部分で話すけど、やめた方がいいよ。ほんとにそろそろ。損すると思うよ。一回落ち着いた方がいいよほんとに」
だいぶやめてるでしょ!笑
という私のリアクションは結構本音である。
前々職では忙殺のあまり適応障害を患い、診断が出て尚1年間もがいた挙句、退職し半年間働けなかった。
前職では1年間底辺に落ちて薄給の中で機械のように働き、一念発起したつもりの取り組みもあっさり諦めてしまった。
妻に迷惑と心配と負担をかけ、焦りと無力を抑え込み、自分の弱さと向き合い、もう一度歩き始めた。
これは反論や弁解ではない。
この数年で大きく揺らいだ私の価値観を理解した上で、これまでの自身の未熟さを確実に突いてくれた友人への感謝なのだ。
他者を理解して他者の為に生きるということを学ぶのがあまりにも遅かったということを改めて認識することができた。
ようやくわかった大切なことと、それを知らないままの過去の未熟の間には一分の隙間もないのである。
そこを刺されると、思いの外効くものだ。ありがとう。
私「自分の意見を通そうとして後々考えたらちょっと弱かったなって思うことも多々・・・」
友「自分の意見を通そうとすることへの弱さ?」
私「いや、自分の意見を通し切れないことに対する弱さ」
これは今回の真理かもしれない。
自分の弱さと無力さを知り、
他者の為に生きたいという優しさに辿り着いた。
その上で私は戦いを挑み、勝つことを未だ望んでいるのだ。
私の価値観はあくまで相対的なもので、
他者の為に生きたいということは他者によく思われたいという事でもある。
これは冒頭で私自身が感じる欠点「見栄っ張り」「いいかっこしい」にも通ずる部分だ。
自分が満たされる為に、他者の為になろうとする。
これをあまり悪いことだとは思っていない自分もいる。
思いやり、感謝され、美徳を為し、納得を得る。
この一連の行為を気持ちいいと思うことは私の正体のひとつでもあるだろう。全員が幸せであり、結局は人間らしいことだと思っている。
「意外と考えるタイプ。行動に起こすまでが遅い。」
これは明確に答えがあった。
筋を通し切りたいからどうすれば通せるか考えている。
納得、勝ち筋、展望、手応え。
事象によって名称は様々だが、どうすればこれらが見えるか考え、見えるまで行動できないでいる。先が見えないことをやることがなかなか出来なかった。
何かを始めるのに先が見えることの方が少ないのに。
これに関しても近年はとりあえずやってみる。失敗してもいい。
と思えるようにはなってきた。理解者がいてくれることで、プライドが和らいだのかもしれない。
衝動的に戦いを挑み、己の我を通そうとするモンスターではないという主張はこの部分にも通ずる。
多少は考えて、自分なりの完全な結論を出してから戦っているのだ。
そしてそのせいで頑固になってしまう。
指摘され、そういうロジックなのではないかと感じることができた。
「俺にない冷静さがあるってことじゃん。言い換えれば」
ポジティブに捉えてくれてありがとう。
私はトップに立つとトップとして戦う事しか選択できなかった。
No.2でいた時は、やたらと客観的なものの見方ができていた、という経験がある。
求心力には自信がない。が求心力のある人間の目になることは出来た。
器としてはそういう塩梅だと認識している。
「先が見えちゃう。わかっちゃうからこうなるだろうな、という先読みができて意外と夢が描けてない。だから自分を虚ろに感じるのでは」
これは買い被りだろう・・・
「そうとも言える」と返したのは見栄を張ったからだ。よくないところが出た。
私はあまり先も見えてないし世の中の事も知らないし結構適当な人間だ。
そう思われたくないから、さも思慮深いような素振りをしているに過ぎない。
先にも書いたが、色々経験するうちにチャレンジ精神というものをもっとライトに捉えられるようになってきたようにも感じている。
私には先なんて見えてないから、まず行動してみることはひとつ課題だね。
「俺は何とも思わないです。でもほかの人に同じテンションで喋ってるんだったら一回相手の意見を最後まで聞いた方がいい。引き出してあげる。尋問にならないように興味があるように。討論じゃないからねコミュニケーションって」
何度も書いたが、私は常に自分の考えに一本の筋が通っていないと嫌な人間である。
だから、常にそれを守りながら過ごしている。
結論が定まっていることを主張するのであれば、そこに帰結するのは自然の摂理であり、QEDというだけの話なのだ。
そして、それ故にどうしようもなく頑固な人間なのだと思う。
結論を曲げることは強さか、弱さか。
心のどこかでそれは弱さであり、貫き通す事こそが強さだと信じ続ける自分がいる。
これは仲が深い人にほど現れる傾向だと思っている。
私は関わりの薄い人間を簡単には信頼しない。
戦うことは信頼を求める行為のひとつとも感じている。
だから友人や妻と戦うことは滅多にない。あまり必要がないからだ。
理解してもらっていると甘えてしまうから自分の事を臆面もなくぶつけられるのだ。
そして友人は思うだろう。
「誰にでもそのスタンスだと損するよ」
全くもってその通りである。
寄り添う事と理解させることは全く異なるスタンスだ。
この機会を糧にそれらを使い分ける発想を持てたらと思う。
最後に金言をくれた友人に最大級の感謝を。
これまでいくつかの自己分析的な記事を書いてきたが、
そのどれとも異なる角度から見つめることができました。
とは言え読み返してみると、
やはり私は頑固だなと感じる。
何度でも言うが、これは反論でも弁明でもなく、
アンサーであり分析である。
自覚するということはスタートラインに立つことでもあると信じて。
褒め合うばかりではなく、
「あくまで建設的に」ダメ出しをしてみるのもたまにはいいものだ。
それは自他の真心を知ることにもつながるから。
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