イルカ探訪誌 2
それがなぜ、今、イルカについて書こうと筆を執ったのか。
当たり前のことだが、イルカを語るにはイルカを知らなければならない。
もし私が、イルカを知らずにイルカを語り出すようなことがあれば、それはイルカではなく、イルカの姿形と名前を模した別の何かだ。
イルカを語る者ではなく、イルカを騙る物だ。
そうならないために、私はイルカを知り、イルカを伝えようとしている。
平家について唄う琵琶法師のごとく、私はイルカの伝道師になろうとしている。
このことこそが答えだ。
私はイルカを語るためにイルカを知り、イルカを知るためにイルカを語る。
“軽いイルカ”
この閉じた円環の中を、私はイルカの背にまたがってぐるぐると泳ぎ、イルカの背にまたがってぐるぐると泳ぐことを考え、その中の私もまたイルカの背にまたがってぐるぐると泳ぐことを考え、その中の私も…。
循環と細分化。
この異なる二軸を用いて、イルカを通じ、私は永遠へとアクセスする。
イルカは触媒であり、客体であり、主体であり、本質であり、無限であり、私自身だ。
私の中を跳ねるイルカの形を下使命感の正体は、そこにあるのかもしれない。
あるいは古来より連綿と続くイルカの叙事詩の内に私が組み込まれることを、若しくは私自身の叙情詩の内にイルカを象徴として組み込むことを、私は使命として捉えているのかもしれない。
いずれにせよ、私はイルカについて語らなければならない。
もっともらしい動機は語り終えた後でゆっくりと考えればいい。
動機など、結局は終わってしまった物事への再解釈に過ぎないのだから。