月の帳⑤
二人は手を繋いで、闇の森を駆けた。木の根に足を取られないように注意しながら、なるべく早く小屋から離れようと走った。子豚も息を切らしながら、ホタルの後をついてくる。果てのない暗い森は、隠れるには絶好の場所だった。しかし、今自分たちがどの辺にいるのかまるで見当がつかなかった。小屋の周りをぐるぐる回っているだけかもしれない。
暗闇が再びホタルの心を喰い始めた。ホタルは徐々に歩幅を狭め、走るのを止め、ついには立ち止まってしまった。この森で動き回ることが、ひどく不毛なことのように思えた。ホタルの額はじわりと嫌な汗に濡れ、呼吸と心臓の鼓動が速くなった。ホタルは忙しく周りを見回した。どこを見ても暗闇だった。ホタルは額の汗を拭うために、子豚と繋いでいた手を離した。
突然、ホタルは暗闇と無音の奔流に呑まれた。耳目から体内に侵入したそれらは、ホタルの体を蹂躙し、圧倒した。ホタルは体内が闇に喰い破られるのを感じながら、それに抗う術を持たなかった。
ホタルの手が暖かい何かに触れた。ホタルの体から潮が引くように、悪いものが消え去り、体温が戻った。右手に触れているのは、暖かくて柔らかな、小さな手。その小さな手が、ホタルを闇の濁流から掬い上げてくれた。ホタルはその手を握り、無限の闇を歩き出した。
長い時間二人は歩いた。子豚が木の根に躓いて、何度目かの転倒から立ち上がった後、それは起こった。まるで嵐の前兆のように、木々が騒ぎ出した。二人を包む粘着質の不安は、やがて鋭い危機感に変わった。
ホタルは乱暴に子豚を引っ張り、近くの茂みに隠れた。嫌な気配は徐々に大きくなる。隣の子豚が震えているのがわかった。ホタルは子豚の手を強く握り、じっと息を潜めた。木々のざわめきは次第に大きくなる。それから水を打ったように静かになった。
それは台風の目のような、不吉な静寂だった。キイキイと何かが軋むような音が聞こえる。ホタルたちが隠れている茂みの向こうに何かがいる。喉元に剣を突きつけられたような恐怖で、ホタルは指一本動かすことができない。息もできない。時間が引き伸ばされ、ひきのばされた分の責め苦を味わった。隣を見ると、子豚が真っ青な顔で、両手で体の震えを必死に抑えている。目から涙が零れそうになっていた。涙の落ちる音で気付かれてしまうのを恐れて、子豚は懸命に涙を堪えていた。しかし、右目から涙の雫が落ちた。その雫が地面に落ちる前に、ホタルの手が受け止めた。
やがて背後のものは過ぎ去り、森に元の静謐な闇が戻った。ホタルの全身の緊張が解け、汗と疲労がどっと吹き出した。子豚はすすり泣いている。ホタルは手を伸ばして子豚の顔に触れ、人差し指で涙を拭った。涙は指を伝い、手の甲を伝って手首から滴り落ちた。
涙の雫が地に触れた途端、ホタルたちの目を青い光が貫いた。ホタルは両手で目を覆い、うっすらと瞼を持ち上げて、指の間からその光を見た。
ホタルたちの前には、二本の青い光線によって道が作られていた。光の道は真っ直ぐに森の奥へと伸びている。ホタルは立ち上がって、光に近づいた。
青い光は薔薇の花から発せられていた。花弁の中が青い炎のように盛んに輝いている。辺りは甘い香りに満ちていた。ホタルたちは光の道を進んだ。青く輝いて咲き誇る薔薇たちは、鬼火のようにホタルたちの足元を照らし、通り過ぎた薔薇は、役目を終えたかのように光を閉ざした。ホタルたちは敬虔な巡礼者のように、目を伏せて丁寧に歩いた。
りん、と鈴の音が聞こえた。ホタルたちは立ち止まって耳を澄ませた。りん、りん、りん。鈴の音は語りかけるように鳴り、やがてあちこちからりんりんと音が加わった。音の上に音が重なって、ホタルたちは鈴の音の櫓の中にいるようだった。一際よく通る鈴が最後にりん、と一鳴りすると、鈴の合唱はぴたりと止んだ。ステージの膜が下りるように、薔薇の青い光も消えた。それから目の前がパアっと明るくなった。開けた場所がある。その空間を、色とりどりの光が染めた。
そこは大きな泉だった。鯨が飼えそうなほど大きな泉だ。泉を囲むように樹木が並び立ち、カラフルな光を、提灯椿や群生するキノコ類が放っている。泉の水底からも光が溢れていた。天を覆う木々の隙間から、僅かな月光が射し込み、それが幌のように泉を包んでいた。
ホタルは泉を柔らかに包む銀のカーテンをくぐり、水に足を浸けた。泉の水はひやりとしていて、熱を持った足の痛みを拭い去った。ホタルは身を屈めて、水を両手で掬い上げた。ホタルの手の中で水はゆらゆらと踊り、水面の傾きの変化に応じて、月光をさまざまな方向へ反射した。指を少し開くと、水は上質な絹のようにするすると指の間を抜けて、泉へと還った。ホタルはもう一度身を屈めて両手で水を掬い、口元へ運んで飲み込んだ。水は甘く、火照った体を冷ました。
ホタルは泉のもう少し深いところまで進み、顔と髪を洗った。輝く水底をよく見ると、琥珀やエメラルドやルビーやトルコ石が、万華鏡のようにキラキラと瞬いている。ホタルはその中の一つを拾い上げた。その結晶の中では、爪先ほどの光が蝶のように舞っている。表面を滴る水滴が、内部の光と月光に煌めいて綺麗だった。ホタルはその結晶を口に含み、コロコロと舌の上を転がした。結晶が歯に当たる度、カチカチと小気味良い音がした。ホタルは口から結晶を取り出し、泉に戻した。ちゃぽんと水を撥ね上げ、ゆっくりと沈んだ。
ふと、ホタルが顔を上げると、子豚がいなくなっていた。正面からぐるりと、反時計回りに一周、辺りを見回してもその姿は無い。子豚はどこかへ消えてしまった。
ホタルに銀色の光が降り注いだ。空を見上げると、もう空を覆っていた幹や蔓は無くなっていて、大きな満月が顔を覗かせていた。月光が慰めのようにホタルを優しく包んだ。
泉が渦を巻いた。ホタルはその激しい水流に足を取られ、渦に呑み込まれた。ホタルは水の中を強い力で振り回された。泉の真ん中に大きな穴が空き、水も宝石も全て穴へと落ちていく。やがてホタルもその穴へ吸い込まれた。