イルカ探訪誌 5
私は大辞林でイルカの項目を引いた。
一行目にはこうあった。
クジラ目の哺乳類のうち、小型のハクジラ類の総称。
どうやら私はこの世迷言を事実として受け入れなければならないらしい。
私は観念した。
しかしその事実を受け入れることは、私にとって容易なことではなかった。
尋常ならざることだった。
その事実は鋭いナイフとなって胸に深々と突き刺さり、私は声を上げることもできずに、ただじっと痛みを体に馴染ませなければならなかった。
痛みが引くのを待つのではなく、痛みのあるのを自然の状態として、私の方が適応しなければならなかった。
さもなくば、ナイフは紙のように軽々と私を裂き、私は淘汰されて化石となって地中深くに潜り、二度と日の光を浴びることなく朽ちてゆくだろう。
そのギリギリのラインに私は立っている。
クジラ。
私はクジラを実際に目にしたことはない。
テレビ番組でマヌケな船のイラストと並べられている写真や、図鑑の写真に『全長50m』とか添え書きされているのを見たことがあるくらいのものだ。
クジラなんて水族館にもいやしない。
もしクジラを飼おうと思ったら、琵琶湖くらいの水槽を用意するしかない。
常識的に考えて、そんなことは不可能だ。
その大きさには全くリアリティが無い。
ただクジラは大きいということを知識として知っているのみだ。
地球は青く、宇宙は広く、クジラは大きい。
これはそういう類の話だ。
私にとってクジラは、竜や不死鳥のような架空の生物と同等と言える。
そのクジラがイルカであるということを、事実と受け入れるとするならば(それは針を飲むような猟奇的な覚悟を必要とした)、私が今まで妄言と切って捨てた数々のエピソードをもう一度、真剣に検討しなくてはならないだろう。
ツチノコ、ネッシー、アダムスキー、夜の学舎を徘徊する二宮金次郎、段数の変わる階段、父がパイロットだと豪語する少年たち…。
それらの亡霊が、足に、胴に、腕に、喉に絡みついてくる。
私は冷水で体を清め、部屋の四隅に塩を盛り、香を焚き、交通安全のお守りを首から提げて、真言を唱えた。
しかし完全にそれらの亡霊を振り払うには、日本中の山を丸裸にしなくてはならないだろう。
ネス湖の底をさらわなくてはならないだろう。
NASAの保有する航空写真を洗いざらい検分しなくてはならないだろう。
そんなことは不可能だ。
私は深呼吸をした。
全てを受け入れることにした。
大丈夫。
ちょっと考え方を変えるだけだ。
クジラはイルカであり、ツチノコは山奥でひっそりと暮らし、ネッシーは湖の底で貝のように眠り、UFOは地球の調査に精を出す。
私は朝起きて歯を磨き、夜になれば歯を磨いて寝る。
何も変わりはしない。
私は目を閉じる。
もう痛みは私の一部だ。
私はようやく針を飲み下すことができた。