月の帳④
どのくらいの時間が経っただろう。足場の悪い暗闇を手探りで進むのは、ひどく神経をすり減らした。明らかに躓く回数が増え、歩くスピードも落ちていた。そもそも時間などこの森では無意味だった。この森は内部と外部を切り離し、永遠の闇と静寂を抱いて結晶となっているのだ。そして森は闖入者を決して逃さない。
太い根に足を取られて転んだ。頬を地面に打ち付け、脇腹の辺りを根が突いた。ホタルは激しくむせた。痛みと苦しさに涙が出た。ホタルはその場でうずくまり、痛みが引くのを待った。目を閉じて浅く呼吸をした。徐々に痛みが鈍くなり、代わりに疲労が体の上にのしかかった。立ち上がろうとするのを体が拒否した。このまま眠ってしまおうかと思った。目を閉じると、沼のような意識の底に、深海魚の姿が見えた。ホタルは薄く目を開いた。眠ろうとする体に必死で抗った。
森の奥に、小さな針穴ほどの明かりが見えた。ホタルは大きく目を開け、近くの木を支えにしてよろよろと立ち上がった。小さな光に向けて手を伸ばした。光は指の先に隠れて見えなくなってしまうほど弱いものだったが、途切れることはなかった。ホタルは光に向かって歩き出した。光の点は近づく程に大きくなった。微かな光が爪ほどの大きさになり、目玉ほどになり、やがて煌々とした輝きになった。
それは粗末な小屋だった。明かりは窓から漏れている。ホタルは窓に顔を近づけた。窓は苔が生えている上に、曇っていてよく見えなかった。目を凝らすと、何か小さなものが動いているのがわかった。ホタルの腰ほどの丈で、丸みを帯びた何かだ。その小さなものに、大きな影が近づいた。それは本当に影のように真っ黒だった。
バチン、という音がして、小さい方が倒れた。大きな影はそれに近づき、棒のようなものを何度も振り下ろし、その度に鈍い音が響いた。それから大きな影は部屋の端に移動し、更に長い棒を持って、反対側の端まで大股で歩いた。
ガタン、ギイギイ、という音を立てて、小屋の扉が開いて、大きな影が出てきた。影は黒のボロ布に身を包み、頭には黒い三角帽をかぶり、手には毛先の乱れた汚らしい竹箒を持っている。それは魔女の姿だった。魔女はホタルに背を向けたまま、竹箒に跨り、地を蹴って空高く飛んで行った。少し遅れて、一羽の禿げたカラスが魔女の後を追うように、小屋からバサバサと喧しく飛び出した。
森に再び静寂が戻ると、ホタルは開け放たれた小屋の扉から、恐る恐る中を覗いた。小屋はつんとすえた匂いが漂い、小さな丸テーブルの上に置かれた燭台によって照らされていた。壁の棚には怪しげな瓶や何かの動物の頭蓋骨が並び、壁に打ち付けられた釘にカエルの死骸が縄で吊るされている。部屋の奥には石で組まれた釜の上に、大きな鍋が置かれていた。その隣には草でいっぱいの竹籠が、打ち捨てられたように置かれている。
泥だらけの床に、くすんだピンク色の体毛に包まれた子豚が倒れていて、テーブルの足を頼りによろよろと起き上がろうとしていた。ホタルは子豚に近づき、手を差し伸べると、子豚は驚いたようにホタルの手を払った。ホタルはバランスを崩して、床に尻餅をついた。立ち上がろうとしても、足がいうことを聞かなかった。ホタルは膝を抱えてうずくまった。
子豚はテーブルの足に掴まりながら、しばらくホタルを観察していたかと思うと、棚に向かって覚束無い足取りで歩き出し、引き出しを漁って何かを手に取った。それから子豚は扉から出て行った。
ホタルは膝を抱えたまま、弱々しく目を閉じ、披露でじんじんと痺れる頭をなんとか落ち着かせようとした。脳みそが細かく振動し、瞼の裏は渦を巻くように回っていた。ホタルはその渦に身を任せる他なく、脳の震えは治まる気配もなかった。黒い渦の中で、ホタルの肩に何かが触れた。それは鶏の羽のように軽いものだった。
薄く目を開き、獅子のようにゆるりとした動きで顔を上げた。例の子豚と目が合った。黒豆のように艶やかな、深い色の瞳が、ホタルの顔を楕円に映している。その顔は奇妙なほど陽気に見えた。
子豚は丸々とした二本の腕の、新芽のように柔らかそうな蹄で、器用に銀の杯を支えていた。子豚は杯を差し出した。ホタルは両手で落とさないように慎重に受け取った。黒ずんだ銀の杯は確かな重さがあり、ぐるぐると回転する意識を繋ぐ錨の役割を果たした。杯の中で澄んだ水がゆらゆらと揺れる。
ホタルは杯を口へ運んだ。下唇を視点として、中身をこぼさないようにそっと傾け、喉を鳴らして水を飲んだ。水が体を巡るのがわかった。僅かな甘味のあるその水は、乾いたスポンジのような体の隅々に染み渡った。指先や目や頭の中が潤いを取り戻し、体にまとわりついていた疲労の多くを洗い流した。ホタルは杯の中の水を一息に飲んでしまうと、大きく深呼吸をした。新たに命を得たような気分だった。
子豚はホタルが水を飲むのを見届けると、鍋の横にある籠をごそごそと漁った。丸い葉を何枚かつけた茎を一本取り出し、ホタルに差し出した。ホタルは杯を脇に置き、茎を受け取った。ホタルがその茎を不思議そうに眺めていると、子豚が茎を取り上げ、葉を一枚ちぎってムシャムシャと食べた。ホタルは再び茎を受け取って、子豚に倣い葉を一枚ちぎり、もぐもぐと咀嚼した。口の中にミントの香りがいっぱいに広がり、脳の震えが止まった。失われていた感覚が戻るのがわかった。
ホタルの顔色が良くなったのを確認すると、子豚は杯と葉を元の位置に仕舞った。ホタルは幾分かクリアになった視界で子豚を捉えると、その体の至る所に痣や切り傷があるのを見つけた。子豚は戻ってくると、手を差し伸べてホタルが立ち上がるのを助けた。立ち上がった拍子に体がぐらりと揺れた。机を支えにしてバランス感覚を取り戻すと、随分体が軽くなったように感じた。
ホタルは子豚の瞼の上の腫れに手を伸ばした。子豚はその手をそっと払い、首を振った。何かを諦めたような仕草だった。
子豚は入口の扉を開け、外を確認してから、手を振ってホタルに出て行くように促した。ホタルはためらいがちに歩を進めたが、扉の前で立ち止まり、傍らの子豚を見た。子豚は温和な顔に困ったような色を浮かべている。
ホタルは子豚の手を取り、小屋を飛び出した。