「君があまりに消えそうだから」【短編】
※本作品はエブリスタ、超妄想コンテスト「雨音」に応募した作品です。
彼女の長い髪はいつも、決まって緑のいい匂いがした。夏になりかけているのだろう。湿気を帯びた梅雨入り前のこの季節、少し汗ばんだ彼女の首に長い髪がひっついているのが妙に色っぽかった。カラン、とアイスコーヒーの氷が鳴って、水滴がコップを伝う。
「ねえ、散歩に行こうよ」
「外は雨だよ。それでもいいの?」
「いつも言ってるじゃん。雨だから行くんだよ」
気分転換、と彼女は白く細い腕を天井に伸ばして伸びをする。窓の外ではサラサラと降る雨が薄灰色の世界を作って初夏の緑を濡らしている。昼間でも電気をつけないと部屋は薄暗いことに今更気がつく。時刻は午後四時を半分過ぎた頃だった。彼女が大体、僕の仕事待ちに飽きてくる時間だ。
「行こうよ、置いて行っちゃうよ?」
「うん、ごめんごめん」
玄関で可愛らしい花柄の傘を持った彼女が僕を呼んだ。僕はノートパソコンを閉じ、予め用意された散歩用のバッグを提げて彼女の手を引いて外へ出た。外に出ると少し風が強く、海風の潮の匂いに雨の匂いが混ざって重みを持っていた。アパートの階段の錆はそんな雨風にさらされて、僕たちが踏むたびにギシギシと鳴っている。
彼女とは大学時代に知り合った。その日も雨が降っていて、傘を忘れた僕は「傘なんて別に忘れていません。ただの休憩です」という顔をして、講義終わり、最寄り駅の待合で冷たい缶コーヒーを飲んでいた。しかし待てども一向に雨が止む気配はなかった。
「傘、忘れたんですか?」
「えっ」
「その缶コーヒー、何分飲んでるんですか」
クスッと笑って長い黒髪を耳にかける彼女がそこにいた。こんなに綺麗な人で、いい香りがする人がこの狭い駅の待合にいて、気づかないはずがないのだが「私も傘、忘れちゃって」なんて照れ臭そうに言われたら、一目惚れが身体を走って大半の思考が飛び散った。
それから僕と彼女は駅の待合で話すようになった。彼女は自分のことをあまり多く話すようなタイプではなかったが、気さくで明るくて、よく笑って活発で、おまけに美人。女の子に免疫がないわけではない僕でも、そんな彼女と話すときはいつだって少し緊張した。そして三ヶ月ほどが過ぎた頃、意を決して彼女に告白をした。なんの捻りもない告白だった。彼女は頬を赤らめて頷いてくれた。今まででこれほど嬉しかったことはない。
それから2年と数ヶ月が経って、僕の就職以降だらだらと同棲生活を送っている。特別、結婚を前提にというわけではなかった。ただ、なんとなくきっとその言葉をお互い口にしなかった。なんとなく。
「私ここの公園好き!」
「本当に好きだよなあ。もう一体何度きたことか」
彼女は「だって好きだから仕方ないじゃん」と言って、子供のようにはしゃいで遊具の上に登って僕に手を振って見せたり、控えめに木からこちらを覗いてみたり、さらには傘を放って踊り始めた。その度に彼女の長い髪がそれはもう美しく靡いた。段々びしょ濡れになっていく彼女は艶やかで、髪先から飛び散る水滴でさえ、絵になった。雨の似合う彼女の踊る姿は、音楽なんてなくたって素敵な映画のワンシーンのように見えた。
雨の得意じゃない僕だが、この瞬間だけはいつも、雨が止まないことを祈った。もう少しだけ、もう少しだけ、この雨が長く続きますように、と。
僕は写真を撮るのが好きだった。だから彼女と付き合う以前から、こうして散歩をするときは必ずカメラを持って出た。彼女を被写体にしだしたのは、彼女の纏う、儚く消えそうな一瞬を写真に収めたかったからだ。理由は判然としないが、彼女はなんだか、いつも、あまりに消えそうだったからだ。
僕はそんな一瞬を切り取ることができたら、どんなに消えそうな存在でもここにいる。と、そう訳のわからない安心を得られるような気がしたのだ。しかし、プロでもない僕は当然、上手く撮れるわけがなかった。所詮は写真好きのアマチュアだ。本当は「ファインダー越し」も勿体無いのだけれど、一度撮ってやった僕の写真を彼女がひどく気に入り、嬉しそうにする彼女を見て以来、彼女の笑顔見たさにシャッターを切り続けている。
「上手に撮れてる! あっ、私この写真好きだなあ……でもこれも、これも好き!」
「ありがとう。君の笑顔が見られて僕は嬉しいよ」
彼女は被写体を終えると必ず、なぜか僕に頭を撫でられにやってくる。それがとても愛おしかった。沢山踊った後で、所々絡まっている彼女の髪の毛を指で梳いてやると、雨の匂いと彼女の緑の匂いの混ざった香りが、鼻腔にすうと溶けていく。これ以上ない至福の時間だ。写真を見ながら表情をコロコロ変える彼女の頭を撫でながら僕は、ああ彼女はちゃんとここにいる、そう実感して安心するのだ。
「今度は誰にどの写真を自慢しようかな」
「そんなに上手じゃないんだぞ、僕の写真……ほら、もう風邪をひくから帰ろう」
「私風邪なんてひかないよ」
「写真なら家でも選べるから。ね?」
駄々をこねながら写真を選ぶ彼女に傘をさして、散歩にしてはほんの少し長めの散歩を終える。
僕が彼女に出会うまで、写真は自己満足に過ぎなかった。どこかに載せもしないし、応募なんかもしなかった。しかし、この街に長く住み、友達の多い彼女が周りで自慢してまわるため、僕の撮る写真は彼女の周りでは有名だった。
最初は酷評だろうと思ったのだが、どうやらウケがいいらしく、彼女の友達は僕の写真をよく褒めてくれた。彼女の繊細な四肢に、重力を感じず、ヴェールのように彼女にかかって揺蕩う髪がより綺麗に彼女を引き立てていてよく撮れている、と。
しかし、僕自身は写真に納得がいっていなかった。思い描くように写真が撮れないもので、ああでもないこうでもないと試行錯誤をしているうちに、図らずも僕のカメラの腕が上がっていった。彼女の周りの評判が上がっても、彼女がどれだけ目を輝かせようとも、いい写真が撮れた訳ではなかった。
だって彼女は消えそうなままだからだ。
「写真、どうしてあんなに綺麗に撮れてるのに、コンテストとかに出したりしないでしまっておくの? 勿体無いってみんな言ってたよ」
ある日、撮影データを見ながら晩酌をしていると彼女が聞いてきた。彼女の写真を撮り始めて、気づけばかなりの時間が過ぎていた。しかし、コンテストなどそんなもの考えたことがなかった。写真は好きだが、プロになりたいわけではなかったし、撮ること楽しかっただけなのだ。彼女の笑顔が見たい、ただそれだけなのだ。それに、納得のいかない写真をコンテストに出すだけの自信など、生憎持ち合わせていなかった。
彼女を撮るということは、彼女だけが上手く撮れていればいいと言うわけではない。彼女の動きを切り取ったその瞬間、その場が潤い、豊かに引き立てられるというもの。その世界が、彼女がそこにいると感じられる温かいもの。主役は彼女自身でもあり、彼女は脇役でもあった。それが、僕の撮りたい理想の写真だった。しかしそんな写真はいつまで経っても撮れなかったのだ。
「あなたはいつも自分で自分を評価するのが苦手でしょ? 私や私の友人はあなたの写真が好きなのに、どうして?」
「綺麗なものはどうしたって儚い。君は……君なんかは今にも消えそうなほどに、綺麗だから。僕はそれを写真に撮って大切にしたかったんだ。でも上手くいかなくて」
「消えそうだから大切にされるなんて私は嫌だ。あなたの言葉で言うなら、綺麗だからこそ、大切にされてみたい。あなたの撮る写真で私、すごく綺麗に見えるのに」
部屋の中はたった一つだけ、僕のデスク上のライトだけが点っている。しんと静まり返ったリビングには、彼女とのいつもの温かさが今この瞬間だけはどこかへいってしまったように感じる。彼女が笑っていないからだろうか。
彼女の言うことは正論だ。僕だって大切にされるのならばいっそ、僕の何かが綺麗だから、と言われた方が嬉しいに決まっている。はたして僕の写真は、彼女の持つ精錬された綺麗さと、儚さを写し出すことができているのだろうか。僕が口籠もっている間、雨の匂いは部屋を段々埋めていった。静かに、そして優しく降る雨音が遠くで聞こえる。言葉を出しづらいそんな重さのある空気を、心の中で湿度の重さのせいにした。
「もうこれまでに沢山君を撮ってきたけど、どれも僕の欲しいものはそこにないんだ。大切にしたいのに、大切にできない。消えてしまいそうなものが本当に消えてしまったら……」
「消えないよ。大丈夫、大丈夫。私はあなたの撮った写真が好きだもん。私はここにいるよ」
彼女はデスクトップに映る僕の撮った写真を愛しそうに眺めてニコッと笑った。僕は彼女の頭を撫でて、髪を優しく指で梳き、その髪に小さなキスをした。嬉しそうにした彼女は僕の膝の上に乗っかって、また嬉しそうに写真を眺め始めた。落ちないように腕に抱く彼女は細く、小さく、軽い。それなのに僕なんかよりもずっと強い。こんなに存在感があるというのにやっぱり消えそうな彼女を、いつもより強く抱きしめた。僕はいつも通り、どうかこの時間が長く続きますようにと願い、同時にそう願う時間が短くあるように願った。
「わかった。コンテストに出そう」
それから何日も写真を撮り続けたが、やはり納得のいく写真は撮れなかった。結果、今まで撮った写真の中で彼女が「これがいい」と言った写真をコンテストに提出する運びとなった。どうやらやけに気に入ったらしいその写真を、彼女がどうしても現像してほしいと珍しくしつこく頼むので、一枚だけ現像してやることにした。いつもは現像せずにデータで保管しているせいか、現像した写真を手にした彼女はここ最近一番の笑顔で笑い、写真を胸に抱いた。
数日後、自宅に市民館の回廊にてコンテスト受賞者を貼り出すとのことの通達が届いたので、彼女と向かうことにした。この日もやはり雨が降っていたが、そう遠くない場所だったので、傘を一つだけさしていつものように手を繋いで歩いた。足音が雨音に混じるのはとても不規則で、下手くそなデュエットのようだったが、僕はずっと聞いていられると思った。
会場は冷房が効いており、同時に除湿も効いていた。パリッとした空気の中、数々の作品が壁にかけられていた。どれも素晴らしい瞬間を切り取った作品だった。暫く見ていても、僕の撮った写真は見かけなかった。そりゃあそうかと、諦めのような、はたまた安心のようなものを覚えた時。
「おおおっ、やっぱり君の作品は優秀だったんだね! 受賞してるよ! でも……おかしいな」
そこには僕の写真と名前、その下に「優秀賞」とのリボンが提げてあった。僕は受賞写真ジャンル枠を見て冷や汗を握った。彼女が不思議がるのも仕方がない。僕が受賞したのは、「風景写真」のジャンル枠。彼女が写っているなら、風景写真などというジャンルになるはずがない。彼女はしばらく立ち尽くしてから、ゆっくり僕へ振り返った。綺麗なあの長い髪の毛は、揺れなかった。
「どうして? 私が写っているのに、風景写真なんておかしいよね?」
「ごめん……」
「ごめんって、どういうこと? ちゃんと説明してよ、ねえ!」
僕はもうこれまでだと思って白状した。
「今まで沢山君の写真を撮った。でも一枚も……君は写真に写ってなかったんだ」
「どうして……」
「写真の君はどうしても視えなかったんだ。何もしなければ、こうやって視えるんだけど」
そう言って彼女に触れようとした手を彼女が振り払った。鈍い音が聞こえた。パチン、でもなく、また音がないわけでもなく、プツン、のような。初めての彼女の拒絶に、何も言い訳ができなかった。僕は彼女を長年騙していたのだから。
彼女は先日現像してやった写真を握りしめて、下を向き長い髪で顔を隠した。小刻みに震えているのがわかる。何があっても僕の前では泣かない彼女は、おそらくその髪に隠れて泣くまいと我慢しているのだろう。ずっと、自分を撮ってくれていると思っていたのが実は、何も視えていなかっただなんて。僕は言えなかった。それをこんなに肩を落とす彼女を見て初めて悔やんだ。冷房がここにきてとても冷たく肌を撫でるようだった。
「いつから……いつから知ってたの。私が……私が人間じゃないことを」
「……最初に、君を写真に撮ったとき。僕はもともと、幽霊や妖の類が視えるような体質じゃない。だから写真に写らないことで、君が初めてそういうものなんだってわかった」
「じゃ、じゃあ。私の友人たちは……視えていなかったってこと?」
「ごめん……本当に」
彼女を最初に写真に撮った時から、彼女は写真にだけ映らなかった。ファインダーを覗くまでしっかり見えているのに、写真にだけどうしても映らなかった。そのせいで、いつか彼女は消えてしまうのかもしれない、いつか僕は彼女を見ることができなくなってしまうのかもしれないと思って、彼女をなんとかして写真に撮ろうとしたのだ。もちろん、儚くて綺麗な彼女を写真に撮りたいというのも間違いではない。最初に何も知らない僕が彼女にレンズを向けたのは、間違いなく、その理由なのだから。大好きな彼女を写真に残したいと思うのは、当たり前だ。
「僕は本当に君が好きだよ。君が何者であろうとも構わないから、これからだって側にいて? な、なあ!」
「前に、言ったじゃない。私はここにいるって……」
「帰ろうか……翠」
泣けない、泣かない彼女のために、僕は彼女を連れて外に出る。傘はささなかった。さっきまで隣を歩いていたはずの彼女は、一歩半ほど僕の前を歩いた。ずっと聞いていられると思った不規則で下手くそなデュエットのような雨音と足音だが、今では頭を抱えたくなるような不協和音にしか聞こえなかった。
暫くして、振り返るびしょ濡れの彼女はほんの少し目を赤くしてまた「大丈夫だよ」と言った。きっと隠れて泣いたんだろう。雨が降っているのに「散歩」をしなかった日は初めてだった。家に帰り着き、バスタオルで髪の毛を拭いてやった時、君の頬には雨か涙かわからない水滴が伝っていた。
遠くで強い雨の音がする。
それに混じって、君が鼻を啜る音がする。
早く、止めばいいのに。
そんなに綺麗に泣かないで。翠。
朝目が覚めて起きると、外は雨は止んでいた。カーテンを開けると、気持ちのいい朝の日光が部屋に入ってきた。ベランダには彼女と一緒に植えた、小さな木の葉っぱに落ちた雨の雫が宝石のように光っている。窓を開けて息を吸い込むと、雨上がりのアスファルトの匂いがした。その日の晴れは、まるで大泣きしてスッキリしたような、そんな晴れだった。しかしそんな天気とは裏腹に、僕と彼女の間は曇り空だった。
毎日の習慣で、朝飲むコーヒーの湯を沸かしている間に、郵便をチェックする。いつもこの行程は彼女がしている。珍しくまだ寝ているのだろう。無理もない。夜通し泣いて泣き疲れたのだろう。郵便受けには実家からの手紙と、友人の結婚式招待状、それから昨日のコンテスト会場から一通の手紙が入っていた。
「第二十三回市民写真コンテスト受賞部門変更のお知らせ……」
要約すると、風景写真で受賞していたが「人物が写っている」との報告を受け、確認したところ主催側の手違いだった、とのこと。僕は寝起きの頭で理解するのに少し時間がかかった。あの写真に彼女が写っていると視えるのは、彼女と同じような存在だけだった。だからこそ、彼女とその友達は僕の撮った写真を評価してくれたのだ。おかしいなあと、頭を掻いていると「くしゅん!」と彼女のくしゃみが聞こえた。昨日雨に当たって風邪をひいたのだろうか。
「おはよう。風邪ひいちゃったかな……おーい、翠?」
一向に返事がない。布団を剥がすと彼女の姿はどこにもなかった。家出だろうか。いや、しかしさっき彼女のくしゃみははっきり聞こえた。クローゼットを全部引き出し、人が入れそうな棚という棚を全部開け、風呂の中や、近所まで探しに出たが彼女は見つからない。
「翠! 翠! どこにいるんだ!」
「ここだよ」
「翠!?」
彼女の声のする方に目をやると、机の上の写真が目に入った。それは彼女が大事そうにしていた、僕が現像してあげた写真だった。彼女が僕の事実を知った時、ぎゅっと握ったせいか、写真は少し歪んでいる。そっと写真を持ち上げると、そこには、僕が視えるはずのない彼女が写っている。そして写真と一緒に手紙が添えてあった。
『ずっと私を撮ってくれてありがとう。
あなたが撮ってくれた写真
みんなに毎回自慢していたの。
本当にどれも素敵だったんだよ。
こんな風にあなたは私のことを撮っていたの。
ね! 綺麗でしょ?
でもね。
いつか消えてしまうのは、あなたの方。
私の命は人間のあなたよりも長いの。
本当は私も怖かったの。
あなたがいなくなることが。
綺麗な私をせいぜい大事にしてよね。
これでもう、消える心配なんてないでしょう?
消えそうだからって
不安になる必要はないでしょう?
優しいあなたのことだもの、
きっと泣いているのよね。
ねえ、そんなに綺麗に泣かないで。
あなたはあなたを生きて。
言ったでしょ、大丈夫だって。
私は、ここにいるよ』
彼女は写真になってしまった。彼女が写っていたところに彼女として収まっていた。それは僕がずっと思い描いていた彼女の写真だった。綺麗な横顔に、華奢な四肢。優しく微笑むような笑顔に伝う雨。そして空気に揺蕩う長く、美しい髪。疑問符のつけようがないくらいに、完璧な写真だった。僕がずっと欲しがった、その場が潤い、豊かに引き立てられるというもの。その世界が、彼女がそこにいると感じられる温かい写真が僕の涙で濡れていく。
「僕は……君が好きだっただけなのに! 僕はいなくなんてならないよ、翠……たとえ結婚なんでできなくたって、ずっと君の髪を梳かして、手を繋いで家まで帰るし、踊り終わった君の頭を撫でるよ。写真だって、僕には視えなくたって、喜ぶ君の笑顔のためならいくらでも写真を撮ったのに! こんなの……こんなのって……」
これでもう二度と、彼女は僕から消えていなくなることはないのかもしれない。ずっとずっと、綺麗な完璧な彼女のまま写真の中にいてくれるのかもしれない。彼女の髪が好き、笑顔が好き、言葉が好き、彼女が好き。心の底から愛していた。君が側にいてくれさえすれば、本当はそれでよかったのに。僕がもっと言葉にすればよかった。ファインダー越しじゃなくて、やっぱりもっと彼女の楽しそうに踊る姿を見ておけばよかった。僕は後悔してもしきれなかった。
涙を隠す雨は生憎今日は降っていない。泣きながら何度も、何度も彼女の名前を呼んだ。彼女の名前、「翠」という名は翠雨、初夏の緑に降る雨の名前だそうだ。僕は彼女にぴったりの名前だ、そう思った。雨が似合う、緑の匂いがする彼女に。ああ、あの匂いが恋しい。
「確かに君はここにいる。でも、この写真を見て嬉しそうに笑う君はいない。あの緑のいい匂いもしない。僕は君を本当に大切にすることができなかった……許してくれ、許してよ翠。だから、写真なんてもういいから、戻ってきて……」
そう願って何年経っても、彼女は戻ってこなかった。駅の待合で待ってみても、雨の日にカメラを持って散歩に出てみても、彼女の姿を見ることはできなかった。朝の日課も、もう一人でこなすことに慣れてしまった。彼女のいない生活に慣れてしまった。朝の郵便チェックをすると、受賞を知らせる頼りが入っていた。
翠、今日は雨の写真のコンテストで受賞したよ。
初夏の緑に降る雨を撮ったよ。翠を撮ったよ。
綺麗に撮れているかな。
なあ、また沢山褒めてくれよ、翠。
【Special Thanks】
表紙撮影:Ksuke様
表紙モデル:天月スイ