お母様を返してください。
2013年4月頃から、仕事の出張にかこつけて仙台の母の様子を見に行き始めました。東京での私たち夫婦との生活も試しましたし、やっぱり震災を共に生き抜けた友達との絆は強く仙台で暮らす事になりました。
でももはやひとりきりで広い実家に住まわせていたら、転倒するばかりが心配ではありませんでした。食事もできたてのホカホカのものを楽しんで欲しかったですし、とにかく誰かに見守りをして欲しかったのです。
幸いな事にケアハウスという施設を発見しました。母の年金収入でお世話になれます。でも入居希望者のウェィティングリストは長いものでした。
2015年3月に、ようやく施設の寮母長さんから連絡があり“ひと部屋空きました。候補者はおふたりなので最終面談をして決めたい。しいては息子さんも同席で”との事。
仙台に飛んで帰り、母とまるで就職の模擬面接みたいなものをやりました。そこまでやる必要は、後から考えたら必要ではなかったのですが、何とか選考に残りたかったので私は必死でした。
ケアハウス入居。
そして同月、お世話になる事が決定しました。ホッとしました。でもまだありました。地元に住んでいる方をひとり保証人に立てる事、入居の契約の会合には同席して書類に署名捺印をする事が必要でした。
父親が実家の不動産の事で親族と揉めた事もあって、お付き合いがある家族はほぼ皆無でした。父の姉の息子さんで、私が子供の頃、遊んでもらった方を探し、事情を説明に行き、何とか快諾を得ました。
母、保証人、私、ケアハウスの所長、寮母長、担当ヘルパーとで入居申し込みの式を行い、ついにお世話になる事になりました。
まだALSを発症していなかった妻にも見せて納得して欲しかったので連れて行きました。良い所で良かったね、と喜んでくれました。ホッとしました。良かった。でもケアハウスにお世話になったからって、姥捨て山に追いやったのではないのです。月に2回は逢いに仙台通いをしました。
父の命日、お盆には車椅子に乗せてお墓参りに連れて行きました。妻がALSを発症し、転倒を繰り返し始めたのが2015年5月頃。それから、日々病状は進行し、家の中のあちこちにつっぱり棒を立てて、つかまり立ちをして歩き始め、片杖で通勤を始め、あっという間の1か月後には両杖に。年末には車椅子での通勤になってしまいました。
新幹線の2時間、束の間の解放感。
そんな目まぐるしい毎日の間でも、仙台通いはしていました。ALSの症状の進行スピードに負けまいと、必死に先取りをして動き回るという、東京での目まぐるしい日々から、抜け出られる束の間が、母の様子を見に行く仙台通いでもあったので、辛かったことはその通りですが、新幹線に乗って300kmも一気に移動するのは、大きな気分転換だったと思います。
車椅子のふたり。
ゴールデンウィークと年末お正月は、私が送り迎えをして、母を東京のうちで妻と3人で過ごさせました。2016年の年末年始は東京の我が家で過ごし、お正月に近所の大きな公園に3人で出かけました。デパートに寄って洋服を買いたい、と母が言いだし、妻が見立てる、という話になったからです。
公園でふたりにスマホのカメラを向けたら、車椅子のふたりが仲良く並んでいました。少しほっこりとした気持にもなりましたが、あーふたり分、背負っているのだな、と気持ちが重くなった事も覚えています。
できるだけ遠くに行こう。
2016年7月に(まもなく動けなくなるかもしれない。動けなくなる前にできるだけ遠くにふたりで行こう)と話し合い、大学の後輩で病気や障害やお年寄りで普通に旅行に行けない人たち向け専業で旅行代理店を熊本で経営している彼の会社に頼んで石垣島、竹富島旅行をセッティングしてもらいました。竹富島で有名な夕陽を見に行って旅館に帰ってきたら、私は誕生日を祝ってもらいました。思い出深い素晴らしい旅でした。航空会社も沖縄県もバリアフリーツーリズムを進めていて感激するものがありました。
ですが旅行から戻って来て、ほぼすぐに妻は、呼吸器官の筋力トレーニングの為に使用していたマスク型の人口呼吸器が手放せなくなり、つまり自発呼吸が難しくなってしまいました。そこで急いで入院をして気管切開、人口呼吸器を使い始めます。胃ろう造営して11月には退院。在宅介護生活が始まりました。
妻の介護と仙台通い。
なかなか重度訪問時間を区役所からもらえず、自費でヘルパーを雇えるだけ雇い、家計にも限度がありますので、ヘルパーさんを手配できない時間帯は、私が一人で昼間も夜勤も担当しました。
一方、重度訪問時間を区役所からもらえても、今度はヘルパーさんが見つからない事がしょっちゅうありました。ですからまた私がヘルパーさんをやりました。
そんな中でも、2日間だけ病院に入院してもらって、仙台の母の様子を見に行く、なんとかヘルパーさんの夜勤も手当できて仙台に泊まれる日があったら、その時に母の世話を焼きに行く、という生活を続けていました。
母の入院が頻発。
2017年に入って、母は心不全と肺炎を頻発し3か月に1回は短期入院を繰り返し始めました。そのたびに仙台に私は行かねばなりませんでした。
2017年の3回目の入院の時、入院している途中で、病院の担当医師から電話がありました。大切な話があるので至急、病院に来て欲しいと。急ぎ向かいました。
医師の説明ですと、心不全、肺炎、盲腸炎から派生した敗血症、胃がんステージ4との事。年齢90歳という事を考慮すると手術などの大きな治療は避けるべきでは、と。母からも今後の治療についての意思確認をして欲しいと。
母に率直に尋ねました。母は“私の体にもうこれ以上、傷をつけたり、管をつないだりする事は許しません!”ともの凄い剣幕で叱られました。
救急病院から転院か。
その時入院していた病院は救急しか受け入れていなかったので、退院して、この、このままの状態の母の入院を受け入れてくれる病院に転院するようにとのお達しを受けました。
病院のソーシャルワーカーに相談に乗ってもらい転院先を探しました。苦労しましたが、幸い受け入れ先を見つけられたので、また別途、仙台に帰り、受け入れ先の病院を訪問し、そちらのソーシャルワーカーさんとも話し合い、転院OKとなりました。
お母様を返してください。
そこでそういった経緯と方針を説明するためにケアハウスの寮母長を訪ねました。そうしたら“お母様を返してください”と真剣な表情で迫られました。私が思うに、仙台の方は、あまりはっきりとした物言いをしない方が多いと思います。ですが、静やかでしたが、もの凄い迫力で迫られたのです。私は圧倒されました。
その時、ハッと気づかされたのです。(あーそうか。もし今さっき決めて来た受け入れ先の病院に転院して、母がふと目が覚めたら、見たことがない看護師や医者がいて、見たこともない部屋の壁や天井が目に入るのだ。寂しいだろうな。一人っきりにされた様な気持ちになるだろうな)と。
その時、私の気持ちは決まりました。転院を断ろうと。そしてケアハウスに戻って、ずっと親切に面倒を見てくださっているスタッフさんや看護師さんたちと、住み慣れた部屋で過ごしてもらおうと。ケアハウスで看取って頂こうと。
母もここにずっと居たかった。
連続した入院が始まる前に、母が突然、(身体の調子が悪くなっても、このままここに居られるのかね?他に移れとか言われるのかね?話を聞いてきておくれ)と言い出したので、寮母長と“これまでの母、これからの母”という話題で打ち合わせる機会を頂いていたのです。
そうしましたら、寮母長さんが言うには、このケアハウスは、特定施設の認可を受けているので、看取りまでしてくださるので、介護度が進んでも、寝たきりになっても他の施設に移ってもらう事はないから、と。母にそれを説明したら“そうか良かった”とホッとしてもらえました。
転院受け入れ先の病院に説明と謝りに伺い、まだ入院中だった救急病院に、ケアハウスに戻る事を説明し、と奔走しました。
看取りを受け入れて頂きありがとうございます。
救急病院のソーシャルワーカーからケアハウスの寮母長への手紙には“この度は看取りを受け入れて頂きありがとうございます”と書かれていました。あーもう本当に看取るのか、とつくづく思いました。
私は東京に戻り、妻の介護にまた掛かりきりになりました。退院からケアハウスへの移動、その他すべてを、もうケアハウスのスタッフに全てお任せする事にしていたのです。
母の退院に立ち合いたい。
ところが10月初めの退院の2,3日前から(どうしても退院からケアハウスの部屋のベッドに寝着くまで一緒に居てやりたい)と思い始め、妻のヘルパーさんの会社に相談して仙台に終日いられるようにシフトを組んでもらいました。
母は午後1時には退院し、民間救急でケアハウスに帰る、との予定でしたので、朝一で仙台に向かいました。病室にたどり着くと、もう寮母長やスタッフさんがいて退院の準備をしていました。私の顔を見ると母が大声で私の名前を呼びました。(また来たの!)と。
実はしばらく前に会った時には(あんた誰?)と言われてショックを受けていたのです。まだらな認知症だったのでしょうね。名前を大声で怒鳴られて、とても幸せでした。
みんな一緒に救急車に同乗してケアハウスに戻りました。ケアハウスのアイドル犬、豆しばのポンタやスタッフさんみんなにお迎えをして頂き部屋に帰り、ベッドに着きました。
最終の新幹線に間に合うまで部屋にいて、時々話したり顔を見合わせていたりして過ごしました。母はあまり喋りませんでしたが、眼が何かを強く私に語り掛けていました。多分、さようなら、元気でね、だったのだと思います。
母、逝去。
東京に戻った後、2,3日に1回くらい(危ないから来てください)との電話を何回も受けました。そして10月31日、午後3時頃に、亡くなりました、との電話がありました。
私の母が間もなく亡くなる状況を説明していた、気管切開などを受けるために入院していた都心の大学病院の妻の主治医とソーシャルワーカーは、私の状況をとても心配してくれていたので大至急、母の逝去を伝え、翌日朝の妻の入院の手配をしてもらいました。
翌日、夕方には葬儀社との打ち合わせに間に合わないとならなかったからです。そして通夜、葬儀、お寺と話し合い、ケアハウスや実家の片づけで最低1週間は仙台にいないとならないと想定していたので、その大学病院にはしっかりとお世話にならないとなりませんでした。
ここまで育ててくれてありがとう。
朝一番で民間救急で大学病院に向かい、病室のベッドに妻が収まるのを見届けて、急いでいったん帰宅。仙台行きに準備した荷物を再確認して新幹線に飛び乗りました。ぎりぎりで夕方の葬儀社との打ち合わせに滑り込み、ようやく母と顔を合わせました。
棺の中の母は瞼は閉じていましたが、口は少し開いていて、何か話したそうでした。何年かぶりに涙が溢れました。妻がALSだと分かった時も泣かなかったですし、気管切開をしたりした時も泣きませんでした。
私の口をついて出た言葉は(ここまで育ててくれてありがとうございました)でした。不思議でしたが悲しくなかったですし、寂しくなかったです。できる事は全てやった気概があったので後悔の念もありませんでした。
一気に溢れ出た蓄積疲労。
ケアハウス入居の際に保証人になってくださった、父の姉のご長男、妻の家からは弟君
、私が会社員の頃、仙台支社勤務時代の先輩おふたりが葬儀に来てくださいました。
葬儀も無事終わり、お墓に入ってもらい、ケアハウスの部屋と実家の跡片付けを私は始めました。しかししばらくすると、尿が出なくなり、腹部が膨満し出して立っていることもできなくなり、床に倒れた状態で携帯で救急車を呼びました。
母がお世話になっていた救急病院に運ばれました。尿カテーテルを入れてもらい一気に出たのでホッとしましたが発熱していました。医師の診断は前立腺炎と肺炎でした。私の妻と母との介護生活などの説明をしましたら、蓄積された疲労が一気に出たのだろう、と言う事でした。
ボロボロ。
しばらくの入院を勧められましたが、東京の病院に妻が期限付きで入院していることなどを説明し、紹介状を書いてもらい退院しました。
尿カテーテルは着いたまま、尿バッグをズボンのベルトに引っ掛けて、コートで隠して新幹線に乗り、東京に向いました。身体だけではなく、こんな事になってしまったので精神的にもボロボロでした。私はどうなってしまうのだろうか、と心配でたまりませんでした。
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