見出し画像

健やかなる時も③ 92

重い足取りで、医局へ戻る途中。
加藤と三上が、声をかけてくる。

「 ──── 穂積一尉!」

「今、お帰りですか?」

「おっ、生きてたか?」僕は何とか、気持ちを立て直す。「そっちはどうだ?忙しいか?」

「まっさかぁ!」加藤が、空のワゴンを指差して言う。「朝から晩まで、掃除と雑用ばっかりですよ」

「わたしのところなんか、ペーパーワーク中心ですから」三上は、肩を竦める。「仕事を忘れそうで怖いです」

「まあな。気持ちは判る」

「来月を楽しみにしてますよ」加藤は、僕の肩を叩いてくる。「芳賀や秋山も寂しがってますし」

「わたしも何だかやり辛くて。シフトがばらばらなせいで、真鍋一曹や山本二曹ともお会い出来ませんから」

「全員連れて行けるかどうか判らないけどな。外科以外は皆、閉鎖したそうだから」

「3月に撤退するまで、隊員はいる訳ですから。衛生隊の業務は続けるんですよね?」

「そのつもりだったんだが。浅見一佐の情報だと、撤退の時期は、予定よりかなり早まりそうなんだ」

「えっ?」

「そうなんですか?」

「まあ、いろいろあるらしくて」僕は、言葉を濁す。「人事的・予算的な問題とか、政治的な駆け引きとか」

「なるほど」

「早期に閉鎖したとして。その後はどうなるんですか?」

「残りの機材を搬出しなきゃいけないからな。施設中隊と一緒に、空路でサマワへ向かう予定だ」

「そっちも暑いんですか?」

「夏場は軽く40℃を超えるけど。冬はここより暖かいぐらいだよ」

「へえ、そんなもんなんですか」

「暑くなきゃいいところなんですけどね。クウェートも」

2人の笑顔を見ながら。
僕はやはり、複雑な気分に陥った。
3年前、東南アジア方面隊で顔を合わせて以来。
彼等は可能な限り、僕の所属する部隊を選んでくれている。
危険を顧みず、家族の反対を押し切って。

けれど。
こんな僕に、彼等を引っ張っていくだけの能力があるのだろうか。
何かと言えばくよくよ悩んで、その都度誰かにいさめられ。
気に食わないことがあると、さっさと逃げ出そうとする。
クウェートに着任した時、当時の上官は何一つやらない人で。
そこでの業務の殆どを、やむなく1人でこなしてきたために。
僕は慢心し、自惚れていたのかもしれない。
高坂が言うように。




2人と別れ、再び歩き出してから。
浅見一佐に言われた言葉が、不意に蘇る。

( ──── そういう意味では、あんたはまだまだ未熟で。人の上に立つような器じゃないのよ)

確かにそうだな、と僕は思った。
澤口将補や小此木一佐の庇護の下。
1年坊主の僕は、上官や先輩の指示通りに動いているだけで。
緊急の場合を除けば、重要な判断や処置の類は全て、上の人間がしてくれた。
カタールで新垣二佐が、クウェートで向井三佐が殉職するまで。
僕自身の力でやり遂げてきたことなど、果たしてあっただろうか?




医局のドア前で、カード・キーを取り出してから。
頬を叩き、深呼吸して、気合を入れ直す。
いつまでも、こんな気分を引きずっていては駄目だ。
新垣先生も言ってただろう?
落ち込んだり、悩んだりしている顔を見せるものじゃないと。
何があっても平然としていろと。
でなければ。
患者であれ、看護師であれ。
僕を頼りにしている人間が皆、不安に陥るだろうから ────


「お疲れ!」

努めて明るく挨拶したのに。
そこには、誰もいなかった。
やれやれ。
こんなもんだよな?

ほっとした気分と、鬱な気分とがないまぜになった状態で。
自分のデスクに座り、PCを立ち上げようとしたその時。
突然、怒声が聞こえた。

「 ──── 何なんですか、あの態度は?一体、何様のつもりですか?」

真鍋だ。
僕は、はっとして手を止めた。
相手の声は、低くて聞き取れないけれど。
それが誰であるかは、見るまでもなかった。

「例え一尉が許しても、俺はあなたを許せません!」

弾かれたように立ち上がり、ドアに駆け寄った時。
それは向こう側から、勢いよく押し開かれる。

「真鍋?」

僕の問い掛けにも答えずに、彼は黙々とロッカーを開け。
白衣を脱ぎ、荷物を引っ張り出す。

「どうした?」

「辞めてやりますよ!」彼は、振り返りもしない。「もう、頭に来ました!」

「ちょっと待て。何があったんだ?」

背後に立ち、肩に手をかけると。
彼は、真っ赤な目を僕に向けてくる。

「どうして言い返さないんです?」

「えっ?」

「他の先生や看護官の前で、あんな酷いこと言われて。どうして黙ってるんですか?」

「流すつもりはなかったよ。あとで、2人で話し合おうと ──── 」

「話し合うなんて無理ですよ、あんな人!」

「まあ、ちょっと落ち着け。気持ちは判るが」

「一尉が言わないから、言い返せないから、わたしが言ってやったんです。カンダハールの時のことも全部」

彼はIDとPHSのストラップを首から外し、デスクの上に置いて。
右手の袖で目を擦ったあと、もう一度僕を見る。

「他の連中は我慢出来るかもしれませんが。わたしは、もう、 ──── 限界です!」

そう言うと。
彼は素早く一礼し、乱暴にドアを開け放つ。

「真鍋!」

追い駆けようと飛び出した僕の前に。
今度は、山本が立ち塞がる。

「何があったんだ?」僕は、少しだけ苛立った。「君がいながら。どうして止めなかった?」

質問には答えずに。
山本は、ナース・ステーションに目をやった。
椅子に座った高坂は、デスクの上に両肘をつき。
組んだ両手に額を当てている。

「 ──── 高坂。ちょっと来い」

僕が声をかけると。
彼は存外素直に立ち上がり、両手で顔を覆ったまま、ラウンジへ来る。

「山本。悪いが、席を外してくれ」

「了解しました」

一礼した山本が、ドアを閉めたあと。
僕は彼を当直室へ入れ、革張りの椅子に座らせて。
それから、ベッドの上に腰を下ろす。
微かな啜り泣きを耳にしながら、僕はまた深い溜め息をつき。
努めて穏やかに、こう切り出した。

「 ──── 大病院出身の君には、こういう現場は退屈だろうし。思うようにいかなくて苛々するのも判る」

「……」

「最前線から離れ、腕を磨く機会を失って。取り残されていくことへの不安も理解しているつもりだ」

「……」

「軍隊特有の慣習や、階級による差別や。わたし個人に対する不平や不満も、いろいろあるだろうと思う」

「……」

「でも。上下関係に限って言えば、うちはそれほど厳しくはないんだ。ある意味、民主主義的でな」

「……」

「例え上官でも、その命令が理不尽だった場合は、拒否されることもある。頭越しに直接、幹部に直訴されることも」

「……」

「上官への服従を徹底している米軍と違って、ここでは技術より、人望と信頼が何より大切なんだ」

相槌を打つことも、反論することもなく。
彼はずっと、涙を拭い続けている。

「いろいろ考えたが。君の言うことも、もっともだと思う。わたしは長いこと、こういう現場しか見てないし」

「……」

「閉鎖的な組織の中で、長い間スポイルされてきたから。思い上がっていたかもしれない。身の程もわきまえずに」

「……」

「ただな?次回からああいうことは、直接わたしに言ってくれ。出来れば2人きりの時に。時間は幾らでも作るから」

「……」

「彼等には彼等の意見や感情があるから。連中の前で言い争うのは良くないと思うんだ。お互いのために」

「あなたは、人気者ですからね」彼は、ようやく口を開いた。「僕と違って」

「そういう話じゃない。どれほど優秀だろうと、医者1人で何が出来る?スタッフあっての我々だろう?」

「……」

「わたしのやり方が気に食わないなら、思う通りやればいい。医者ってのは職人だからな。それは仕方ない」

「……」

「でも。彼等の信頼と協力なしでは、これから先やっていけないぞ?」

「……」

ようやく落ち着いたのか。
彼はデスクの上のティッシュペーパーを取って、顔を丁寧に拭い。
ステンレス製のごみ箱に、それを投げ入れる。

「 ──── 謝ってきます。確かに真鍋くんには、嫌な思いをさせましたから」

おい。
こっちに対する謝罪はないのか?
一瞬、そう突っ込みかけたけれど。
僕は何とか、その感情を押し殺す。

「真鍋が君に、何を言ったか知らないが。あいつ、辞めると言ってたぞ?」

「えっ?」

「IDもPHSも置いて。荷物を持って出て行ったから。今度こそ本気じゃないのか?」

「今度こそって?」

「あいつとは3年前、タイの軍病院で会ったんだが。その頃は、よくやらかしたんだ」

「……」

「ORナースの中で一番若いのに、機械出しが神がかり的に上手くてな。それだけに生意気で、意地悪もされたよ」

「……」

「しょっちゅう喧嘩して、衝突して。分かり合うまで1ヶ月以上かかった。それからはずっと、今みたいな感じだ」

「……」

「どうする?」僕は、ベッドから立ち上がる。「このまま辞めさせるか?それとも、わたしが行って引き止めるか?」

「 ──── いえ」高坂は、首を横に振る。「僕のせいですから。僕が行きます」

「部屋は判るか?」

「はい」彼はもう一度、右手で顔を擦る。「何度か、遊びに行ってますから」

一緒に当直室を出ると、彼は真鍋のIDと電話機を取り。
ポケットに入れて、医局を出て行く。
自分のデスクに戻り、椅子にもたれて溜め息をつくと。
山本が、マグカップを目の前に置く。

「シュクラン」僕は、アラビア語で礼を言う。「頼むから。少し休ませてくれ」

「勿論です」山本は、頷きながら微笑んだ。「朝から大変でしたね」

「いろんな意味でな」僕は顔の上に両腕を乗せ、目を閉じる。「恩師の命日を忘れてたバチが当たったんじゃないか?」

「大丈夫ですよ。まだ1日しか過ぎてませんし」

「わたしもきっと、あんな感じだったんだろうな」僕はまた、溜め息をつく。「新垣先生の苦労が、やっと判ったよ」

「誰もが通る道でしょうから」彼は、優しい声で言う。「わたしも早く、そうなりたいものです」


いいなと思ったら応援しよう!