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健やかなる時も③ 113

次の瞬間。
居合わせた誰もが姿勢を正し、一斉に敬礼する。
だから。
それが誰であるのか、確認するまでもなかった。

「ドアを全部閉めてくれ。廊下まで筒抜けだ」

「了解しました!」

弾かれたように、三上が駆け出した時。
僕は呆然と、彼を見返す。
昨日までの出来事を、一つ一つ思い出しながら。

強健な体躯を包む迷彩服、襟元に光る一等空佐の階級章。
その背後には、曹長と准尉の姿。
振り返った彼は、2人に席を外すように命じ。
僕と高坂に視線をくれながら、腕を組む。

「 ──── お前等には、守秘義務ってものはないのか?」

僕は、答えられない。
目を逸らすことも。

「よくもまああんな大声で、人の病歴をべらべらと ──── 」

穏やかな声で、彼は続ける。
揶揄からかうように微笑みながら。

「明日にはきっと、部隊中に知れ渡ってるぞ?」

「申し訳ありません」僕は、やっとの思いで口を開く。「気が動転してしまって。配慮に欠けていました」

「全くだ。万が一わたしが告知を受けていなかったら、大変なことになるところだったぞ?」

「……」

「 ──── 高坂?」

「はい」

「どうして、約束を破った?」

「……」

「穂積を殴った理由は何だ?」

「それは ──── 」

「説明出来ないか?」

「……」

「バラしてしまったものはしょうがない。ただ、穂積が言うように。君は、致命的な思い違いをしているぞ?」

「……」

「穂積」彼は腕組みを解き、ズボンのポケットに親指をかける。「2020年の10月、君は何処にいた?」

「プラモンクラオ陸軍医科大学病院です」

「それを証明出来る者は?」

「わたしも同時期に、同病院で研修を受けていました」真鍋が、一歩進み出る。「間違いありません」

「そんな」高坂は、信じられないという顔をする。「だって、見たんです!カルテに ──── 」

「"J・H"のサインか?」

小此木一佐が即答したので。
高坂は再び、口をつぐんでしまった。
そこで。
僕はようやくぴんと来た。
ベース・キャンプで再会した、ある人物の存在に。

「執刀したのは穂積じゃない。連合軍衛生隊所属の、Jose Henriだ」

「 ──── ジョゼ・アンリ?」

「そう。去年除隊してからは、NPOの医師団に所属しているが」

「カンダハールで会っただろう?」と、加藤。「巨乳の女医さんだよ」

「あ、判った!」三上が、ぱんと手を打ち鳴らす。「英語読みだと、ヘンリーですね!」

過ちに気付いた途端。
高坂の顔から、みるみる血の気が引いていくのが判った。

「穂積が誤診したという事実はない。ジョゼが見落とした翌年、新垣先生が異変に気付いた」

「 ──── えっ?」

「再手術の前に精密検査が必要だということで、紹介状を書いて貰った。カルテへの記載はせずにな」

「どうしてですか?」僕は信じられずに、首を振る。「何故送還された時、手術を受けられなかったんですか?」

「……手術は、しました」高坂が、消え入りそうな声で答える。「ただ。再発を抑えられなくて ──── 」

「つまり、そういうことだ」彼は肩を竦め、溜め息をつく。「予後が心配だから。何が何でもついて行くと言われてな」

一佐の言葉が途切れた時。
高坂は俯いたまま、涙を拭い始める。
啜り泣きを耳にしながら、僕と看護官達は顔を見合わせて。
それからまた、一佐に視線を戻す。

「どうして、そんな状態で復帰なんか ──── 」思わず、声が震えた。「何故、治療に専念なさらないんです?」

「外交とはビジネスだ。対等な立場での交渉が必要だ。言われるままに、金さえ出せばいいってものじゃない」

「……」

「親父がよく言っていたよ。軍事も政治もそうだ。情勢を把握し、連携し。時には服従し、時には挑発しなければならない」

「……」

「日本人は中東の現実を知らない。歴史を知らない。イスラム教も、彼等の習慣も。どうしてテロが起こるのかも」

「……」

「わたしにはパレスチナとイラン、イラクとパキスタンの血が流れている。ここは、わたしの祖国でもあるんだ」

「……」

「血縁と戒律を重んじる国で、わたしは異端者だ。改宗していない分、余計タチが悪いと非難されることもある」

話しながら。
彼は一度だけ、腕時計に視線を落とす。

「安全を保障してくれるよう、有力部族と交渉して。彼等を味方につけるために、場合によっては私財を投じたりもする」

思い掛けない言葉に。
居並ぶ看護官達も、一斉に俯いてしまう。
そんな僕等を見回して。
彼は、穏やかに語りかけてくる。
まるで、子供に言い聞かせるかのように。

「腰掛けキャリアの飯塚司令や、出世目当ての河辺に。そんなことが出来ると思うか?」

「……」

「情報収集や人心の掌握を。一銭の得にもならず、誰にも評価されない個人的な活動を。誰がしたいと思う?」

「……」

「わたし以外に、誰がやるんだ?」

その問い掛けに。
僕はやはり、答えられない。
沈黙の中で思い出すのは、10年前のこと。
彼の父と交わした会話と、リビングに置かれた沢山の写真。
陸さんと、彼の母の姿だった。


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