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健やかなる時も③ 93

深夜。
慌ただしく何かを運び込む音で、僕は目を覚まし。
隣の病室から聞こえてくる会話に、耳をそばだてた。

「 ──── 離れて!」

「はい!」

聞き覚えのある衝撃音。
しかし、アラームは一向に鳴り止まない。

「どう?」

「まだ駄目です!」

「えー、ちょっと待って!どうしたらいいの、こういう時?」

「先生、ボスミンは?」

「ワンショット入れたって!」

そんな言葉の合間にも、アラームは鳴り響き。
ぎしぎしと、ベッドの軋む音がする。

「ヤバいなぁ。ヤバいよぉ。止まっちゃうよぉ」酷く、おろおろした声。「新垣先生、まだ来ない?」

「すぐいらっしゃいますよ」年配の看護師が、冷静に答える。「太田先生、ご家族に連絡は?」

「ああ、やってない!電話しといて!」

そんなやり取りの直後、複数の足音がばたばたと過ぎたから。
僕は隣室の様子が気になって、痛む体を起こし。
点滴架台を引っ張って廊下へ出、ドアの向こうを覗き込む。
そこには2人の看護師と、研修医らしい若い医者と、昼間見た大柄な男がいて。
緊迫したやり取りを続けている。

「馬鹿野郎!何ですぐ呼ばない?」

「ずっと危篤状態で、でも毎回持ち直してましたから。今回も大丈夫かなぁって…」

「はあ?何だそりゃ?」

「いやその。除細動しても駄目で、これ以上は無理かなぁって。やるだけのことはやったんで ──── 」

若い医者が、そう呟いた瞬間。
彼は、その胸倉を掴み上げる。

「何考えてんだお前?昨日もそれで、1人殺しかけただろうが?」

「いや、ですから僕は、救急とかほんっと無理なんで ──── 」

「無理って何だ?出来もしねぇ、やりもしねぇ癖に。本気出さねぇと、もう1回ケツ蹴っ飛ばすぞ?」

その気迫に圧倒されたのか。
若い医者は慌てた様子で看護師をどかせ、心臓マッサージに取り掛かり。
年配の看護師がすかさず、開け放したドアを閉めに来る。
反射的に身を隠した時。
廊下には再び、男の怒声が響き渡る。

「ピトレシン!」

「はいっ!」

「BPは?」

「上がり、ません、ねっ!」と、息を切らせながら。「やっぱ、無理、じゃないっすか?」

「もういい、代われっ!簡単に諦めてんじゃねぇっ!」

「はっ、はいっ!」

「茂木さん、頑張れ!今、おかあちゃん来るからな!」

「あの、センセ」若い医者が、恐る恐る問う。「それまで続けるんすか?」

「当然だろうが、馬鹿野郎!誰のための宣告だと思ってやがんだ?」

その時。
エレベーターの扉が開き、看護師に付き添われた女性が現れた。
口元には、真っ赤なハンカチを当てている。
2人がドアの向こうに消えたあと、ベッドが軋む音はようやく止んで。
それから、長い沈黙が続く。
微かに聞き取れた、臨終宣告のあと。
女性の啜り泣く声が、断続的に聞こえてくる。

生々しい死の場面に直面して。
僕は、口も聞けないほどのショックを受けていた。
激しい動悸と共に思い出すのは、弟が事故に遭った日のこと。
重いブレーキの軋み、アスファルトの上に倒れている礼。
おばさんの悲鳴と、駆け出す優の背中。
心臓マッサージを続ける彼と、3人の救急隊員の姿。
赤色灯とサイレン、両開きの大きな扉。
処置室を覆う濃緑色のカーテン、リノリウムの床にしたたる鮮血。
シャーカステンの前を走り回る看護師と、飛び交う専門用語。
それと、救急外来の医師達の、比較的無感動なやり取り。

( ──── こりゃ無理だなぁ。頚椎完全脱臼だ)

(乗用車ならまだしも、ダンプですからね。ひとたまりもないですよ)

(で、親御さんは?連絡ついたの?)

(はい。こちらへ向かってます)

(あそこにいるのは?)

(その子の兄と、友達だそうで)

(どうします、先生?まだ何かやりますか?)

(とりあえず、輸血と薬剤はいいや。親御さん到着するまで、心マと人工呼吸だけ続けておいてくれ)


──── 駄目だ。
考えるな。
思い出すな。
必死にそう言い聞かせ、気力を振り絞って病室へ引き返そうとした時。
突然ドアが開き、男が現れる。

「何やってる?」

怯える僕を一瞥すると。
新垣医師は無言で僕の腕を掴み、そのまま大股で歩き出し。
医局のドアを開け、その向こうの個室に押し込んで。
ようやく僕の手を離し、どかりと椅子に腰を下ろす。

「座れ!」

「はい」

反射的に、前に置かれた丸椅子に座ると。
彼は乱暴に僕を引き寄せ、パジャマをめくり。
引き出しから軟膏を取り出して、胸の火傷に塗り始める。

「何でこんなになったか、知ってるか?」

「…いえ」

「ここへ来た時は、低体温症で半分持ってかれてたんだ。こいつは、電気ショックで心臓を動かそうとした跡だ」

「……」

「わたしがいなけりゃ。坊主もああなるところだったんだぞ」

恐ろしく静かな部屋には、蛍光灯が一つだけ点されていて。
スチーム暖房の微かな音だけが、低く響いている。
白髪混じりの短髪に不精髭、皺だらけの白衣から覗く浅黒い首筋。
くっきりとした二重瞼に明るい色の瞳、彫りの深い顔。
動くたびに、煙草の臭いがふわりと鼻先を掠める。
地元の人間らしからぬ風貌をした彼は、40半ばぐらいだろうか。
神経質そうな見かけと、粗野な言葉遣いとは裏腹に。
その指は恐ろしく繊細で、酷く優しかった。

「眠れないのか?」

「あ、はい…」

「そりゃそうだよな」

パジャマを下ろし、胸をぽんぽんと叩いたあと。
彼はデスクに伏せた新聞を手に取って放り投げ。
下に置かれていたざる蕎麦のラップを、無造作に取り外す。
その行動の意味が判らずに、凝視していると。
新垣医師は平然として、割り箸を手に取った。

「 ──── 信じられねぇと思ってんだろう?」

「えっ?」

「顔に書いてあるぞ。"人が死んだあとに、よく飯なんか食えるな?"って」

言葉に窮すると、彼は初めて微笑んで。
蕎麦猪口ちょこの蓋を取り、薬味を全て放り込む。

「昼の出前なんだけどな。今日は滅茶苦茶忙しくて、悠長に飯食ってる暇なんかなかった」

「……」

「これじゃもう蕎麦なんて言えねぇな。うどんだようどん」

「……」

「坊主も食うか?」

「あ、いえ」僕は、慌てて首を振る。「結構です」

ずるずると、蕎麦を啜る音が響く中。
僕はぼんやりと、周囲を眺めていた。
銀色の医療器具や、大量に積まれた書類。
院内感染予防や、海外派遣反対のポスターなどを。

伸びきった蕎麦を、あっと言う間に平らげると。
新垣医師はティッシュ・ペーパーを2、3枚引っ張り出し、ごしごしと口元を拭い。
空いた食器を隣の席に置き、丸めたティッシュとラップをゴミ箱に放り込み。
それから僕に向き直り、思いがけない言葉を口にする。

「じゃ、行ってみるか」

「行くって ──── 何処へ?」

「おとうちゃんとおかあちゃんのところだ」

「えっ?」

「明日、行政解剖に回されちまうからな」彼は、椅子から立ち上がる。「その前に会わせてやるよ」



点滴を外して貰い、エレベーターで地下へ降りている間も。
僕は、酷く不安だった。
そんな気も知らず、新垣医師は、どんどん先へ進んでいく。
白衣のポケットに、両手を突っ込んだまま。
そして。
霊安室の表示の前で、彼は立ち止まり。
躊躇うことなく、重厚なドアを開ける。

「怖かねえからな。男なら、ちゃんとお別れぐらいするもんだ」

立ちこめる線香の煙が、目の前で揺らいだ時。
その向こうに、簡素な寝台が二つ置かれているのが判った。
彼は両手を合わせてから、純白のシーツをめくる。
蒼白な顔、鼻と耳に詰められた脱脂綿。
堅く閉じられた瞼と、穏やかな顔。
2人はまるで、眠っているようにしか思えない。

「傍に行ってやれ」

彼の声に突き動かされるように、僕は足を進めた。
仄かな灯りの下、母の唇だけが、やけに赤く見える。

「 ──── 先生」

「うん?」

「触っても、大丈夫ですか?」

「ああ。今更、お前さんを驚かせたりしねえよ」

そっとシーツをめくり、母の右手に触れると。
その手首には、酷く鬱血した跡が残されていた。
冷たく乾いた手を握ったあと、再びシーツを被せ。
隣の父に歩み寄り、同じように左手を握る。
ごつごつした大きな手には、初めて見る指輪があり。
手首にはやはり、鬱血の跡があった。

「 ──── 仲、良かったんだな。おとうちゃんとおかあちゃんは」

「はい」僕は、やっとの思いで答える。「喧嘩したのを、見たことがありません。今まで一度も」

「シートベルトして、ロックして。お互いの手首も、足首も、紐で結わえて。相当の覚悟だったと思うよ」

僕の背後で。
独り言のように、新垣医師は言葉を続ける。

「でも。お前さんだけは、助けてやりたいって気持ちがあったのかもしれんな」

「……」

「海自の連中が言ってたが。後部座席のドアだけは、ロックされてなかったそうだ」

「……」

「生きろよ、坊主」彼の手が、頭に乗せられる。「逃げるな。諦めんな。この先、何があっても」

その言葉に。
張り詰めていた何かが、ふつりと切れた。
涙がこぼれる直前に、彼は僕を抱き締める。
白衣に染み付いた、煙草と消毒液の匂い。
荒っぽく背中をさする、手の平の温もりを感じながら。
僕はようやく理解した。
意識が戻った時の、彼の態度を。
彼が放った言葉の意味と、その重さを。


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