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手術中にもう結果はわかっている。

例えば肺癌の手術、CTを見ながら器械出しを始める。ドクターは見えていないのか背中側の壁側胸膜に小さな結節像があって、自分は気になってならない。

肺切除の予定だが開胸寸前に目の前の壁側胸膜にドクターは播種を発見する。一切の操作はそこで止まり開胸はせずに閉創に方針転換となる。

閉創の前にドクターがCT画像の前に並び答え合わせをしている。そのうち1人のドクターが「これか?」と自分が気になっていた結節像に目をやり、そうなると「これも?」「ああ、そうかもしれない」などと答え合わせが進む。

おそらく肺がんが見つかり、ご本人もご家族も「何とか手術して、助けてほしい」と願って一大決心をして手術に臨まれたはず。でもその希望は叶わず「手遅れ」の知らせをご家族は受け、ご本人は翌日には手術はうまくいったから抗がん剤を頑張ろうと言われる。

この麻酔も手術操作も患者ご本人には「相当な負担」であり、体力や抵抗力を奪うので、癌にとっては「進行の速度を早める」またとない機会になってしまう。

そこからはご家族は淡い期待を込めて「ウソ」をついてご本人に抗がん剤治療を勧める。ご本人は何かおかしいと思いながらもつらい抗がん剤治療を受けながら衰弱していく。そのうち痛みが出るか、呼吸の苦しさを受け続けることになる(両方ともということもあるし、転移による痛みに見舞われることもある)。
その先はどうなるか、推してしるべしとなる。

閉創の介助をしながらそれらを予想する。手術後麻酔から覚醒させる介助をしながら病室に戻れるように援助する。自分のその患者への「仕事」はそこまで。

器械洗浄や消毒、セット組みなどを終えて、明日の担当を確認する。やりきれない思いで帰宅することになる。その当時は今ほどの抗がん剤のバリエーションもなく、PET-CTもない時代で、告知もまだ浸透していなかった。

なので可能な限り切除するという方針だったように思うが、いわゆる「肺癌取り扱い規約」からは逸脱していたのかもしれない。それはドクターの「診断」の領域であり、自分が口を挟むことではない。「あんたのところに肺がんで入ったら、帰るのは裏口からだもんね」と親族に言われたこともある。何百という肺癌手術に入って、「この患者は助かる」「この患者は助からない」が手術中にわかるようになる。

数秘術からのメッセージを受け取り、自分との対話で豊かな人生を送れますように。