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葦津珍彦「時の流れ」を読み解く(5)「時局展望」第5回「政党と総選挙=資金、人物の問題=」

「時局展望」(昭和22年2月24日)第5回

 前回は葦津が神社新報紙上で連載したコラム「時の流れ」の前身である「時局展望」第4回「国体論の将来 新憲法未解決の問題」を取り上げた。
 今回は昭和22年2月24日発行の神社新報第34号の1面に掲載された「時局展望」第5回を取り上げたい。論題は「政党と総選挙=資金、人物の問題=」、署名はなされていない。

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 本コラムでは大日本帝国憲法下、天皇の大命により組閣した最後の内閣である第一次吉田内閣が、日本国憲法が公布され、施行も目前に迫るなか、正統性を問うため実施することとした解散総選挙、いわゆる「新憲法解散」、すなわち第23回衆議院議員総選挙を目前にし、政治資金と人材の問題を取り上げている。
 吉田はこの年の3月31日に衆議院を解散することとし、ただちに第23回衆議院議員総選挙が告示され、4月25日が投票日と定まった。また、日本国憲法により参議院が新たに設置されることになったことから、4月20日が第1回参議院議員通常選挙の投票日ともなった。天皇が任命していた都道府県知事や都道府県議会議員などを選出する第1回統一地方選挙(統一自治体選挙)もこの年の4月に行われた。
 まさに選挙イヤー、しかも戦後政治の出発点ともなる選挙イヤーというべきこの年、一年で動く選挙関係資金は50億円、立候補者は5万人と推測されていた。この当時の50億円に5万人である。途方もない巨額の資金であり、大量の人が入り乱れる。そこでは人々の野心や欲望、利害や利権も交錯することであろう。
 こうした選挙イヤーの劈頭である解散総選挙にあたり、本コラムは選挙関係資金など政治資金と立候補者など人材の問題、すなわち「カネとヒト」の問題を問うものである。

政治資金と新円新興階級

 まず葦津は、極度の経済的混乱の渦中にあって、これだけの巨額の政治資金を調達できる存在として、当時の成金である新円新興階級をあげる。

 経済失調に悩んでゐる一般国民にとつては、この様な厖大な政治資金を短期間に調達し得る様な余力が、この国の何処にあるのが想像することも困難である。凡らくインフレの時流に便乗した好ましからぬ階級―所謂新円新興階級を度外視しては、何れの党派と雖も資金工作は困難であらう。新円新興階級の政治資金が果して、本年の政界にどの様な影響を及ほすであらうか、刮目して注視監督を要する所であらう。

 新円新興階級とは、昭和21年に幣原内閣が実施したインフレ収拾のための新円切り替え以降に経済的にのし上がった人たちのことをいい、新円成金や新円階級などともいわれる。彼らの多くは戦後の混乱のなかで、ヤミの商売でのし上がったといわれるが、葦津は、次の選挙では、どの党派もこうした新円新興階級から政治資金を工面するだろうし、そうであれば当然、新円新興階級が政治的な影響力を持つのであるから、その動向に注視しなければならないとする。
 考えてみれば田中角栄も戦前から商売をしていたとはいえ、占領期に進駐軍相手の建設業で財を成したのであり、ある種の新円新興階級といえるのかもしれない。大手スーパー「ライフ」会長の清水信次は戦後、多くの政治家と関わりをもったが、もともとは闇市で成功した人物であり、これもまた新円新興階級といえるだろう。こうした人物が選挙を通じてどのような政治的影響力を持つのか、確かにこの時点で気にするべきことであった。
 なお、終戦直後の経済的混乱と、そこからのし上がり政治的影響力を持ち始める人々の動きについては、数年前に放送されたNHKスペシャル「戦後ゼロ年 東京ブラックホール1945-1946」がドラマ仕立てでわかりやすく紹介している。

NHKスペシャル「戦後ゼロ年 東京ブラックホール1945-1946」

社会主義政党には老練な大政治家を、保守政党には青年闘将を

 一方で葦津は、“カネ”の問題以上に各党派とも“ヒト”の問題で苦労しているだろうとする。というのも、このころ多くの人が復員や引き揚げをしたばかりであり、生活再建が優先で政治どころではないという人も多かった。抑留などでまだまだ帰国できない人も多くいたし、戦犯として身柄を拘束されたり、公職追放された人も多かった。何より、多くの人が戦争により亡くなり、また病気や怪我で苦しんでおり、日本全体が人材不足で苦しんでいたのである。
 共産党は「わが党に公職追放者はない」と自負していたが、戦前からの古参党員は少数であり、葦津の言葉でいえば「多くは終戦後急製の素人革命家」であった。急成長中の社会党は選挙で第一党となる可能性も見えていたが、やはりよい人材はおらず、党外の学者や官僚、実業家まで引き入れて頭数を揃えているような状態であった。
 一方で保守政党の側も公職追放などにより人物らしい人物がおらず、ひと昔もふた昔も前の「活気のない精力に乏しい老朽人を揃へ」ようとしていた。
 そこで葦津は、社会主義政党と保守政党に期待する人物像・政治家像を述べる。

 私見を端的に云へば、今日の社会主義政党は、何よりも経験に富んだ弾力性のある大政治家を必要としてゐる。老練な、頼もしい底力のある政治家が必要な時になつて来てゐる。これに対して保守政党の側に於ては、明敏果敢な青年政治家を必要としてゐるのである。嘗て英国の労働党が大進出を示した二十年前の頃、そこにはマクドナルド・スノーデン・トーマス等の老練な力性のある政治家があつた。これに対して保守党の側に於ては、常に有能にして果敢な青年闘将を抜き出して重要な地位に引上げることに努めた。日本でも有名なチヤーチルやイーデンは、何れも卅歳代で大英帝国政府の閣僚の地位についた人である。この点にこそ、英国保守党か言論戦に於ても、大衆指導に於ても、決して沈滞に陥ることなく生彩ある活動を展開して、よくその任務を果し得た大きな一因であると思はれる。闘志なく、ただ事勿れをのみ願ふ老朽者では、この転換時代に於ける保守政党の任務は到底果し得ないであらう。

 葦津は、社会主義政党こそは老練な大政治家が必要であり、逆に保守政党においては若々しい闘士が必要であり、「闘志なく、ただ事勿れをのみ願ふ老朽者では、この転換時代に於ける保守政党の任務は到底果し得ない」という。
 社会主義・革命党こそ老練な大政治家が、保守政党こそ青年闘将が必要というと、何か逆のような感じもうけるが、言われてみればその通りであろう。改革政党こそ安定を視野に入れる必要があり、安定を求める保守政党には停滞を脱する若々しさが求められるのである。
 葦津のこの見立ては、闘技デモクラシーと熟議デモクラシーを車輪の両輪としてバランスをとるというような近年の中島岳志氏の指摘にも通じるものがあるような気もするが、ともあれ、葦津がある特定の党派の動向だけを気にするのではなく、日本政治全体の行方を「カネとヒト」という非常にリアルな視点で見ていたことには驚嘆するものである。

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