石川・宮森小学校米軍ジェット機墜落事故と賠償交渉─櫻澤誠氏の研究に見る「島ぐるみ」の維持と500ドルの攻防─
宮森小米軍機墜落事故に関する琉球新報の報道
昭和34年(1959)6月30日、嘉手納飛行場を離陸した米軍ジェット戦闘機が石川市(現在のうるま市)の宮森小学校に墜落・炎上する事故が発生した。この事故により児童など17名が死亡、210名が重軽傷者を負った。また重軽傷者のうちの1人が後遺症で後に死亡した。いわゆる石川・宮森小学校米軍ジェット戦闘機墜落事故である。
この事故について琉球新報2019年4月20日は、
1959年6月の宮森小ジェット機墜落事故で、米国が一律2千ドルを上乗せして支払った遺族への賠償金について、琉球政府の要求で2500ドルへの上乗せにも応じていたことが19日、分かった。事故を語り継ぐ「石川・宮森630会」が入手した米国立公文書記録管理局(NARA)に所蔵されている琉球列島米国民政府(USCAR)の関係文書に記されていた。米国は直後に控えたアイゼンハワー米大統領の来沖への影響を危惧していたとされ、交渉長期化を避けたい米国の思惑が改めて浮き彫りになった。
と報じている。
近年の櫻澤誠氏の研究
墜落事故は沖縄の戦後史を振り返る上で必ずといっていいほど言及されてきたが、事故後の賠償交渉に関する詳細な研究や、賠償交渉を含め事故の歴史的な位置づけをおこなったものはほとんどないが、沖縄の復帰運動や保革対立などをテーマに研究をおこなっている櫻澤誠氏は『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜─政治結合・基地認識・経済構想─』(有志舎、2016年)のなかで事故と賠償交渉を取り上げ、復帰運動と関連させて歴史的な位置づけをおこなっている。
以下、櫻澤氏の研究を参考に事故と賠償交渉を振り返り、琉球新報当該記事をどのように捉えるべきか考えてみたい。
墜落事故後の米側の対応
墜落事故発生直後、米側は対策本部を設置し救助活動をおこなった。翌日には慰霊祭を開催し、スミス第313空軍司令官が遺族に金一封の香典を送るなどしている。また破損した校舎の修復にも取り掛かり、事故を起こしたパイロットも軍法会議を開いて調査するとした。
こうした米軍の前向きな対応は、島ぐるみ闘争や那覇市長問題などを経験した米側が統治政策を転換するなかで、再び沖縄で反米感情が広がるのを恐れたためであり、本土側でも墜落事故が問題視され懸案となっていた日米安保条約の改定交渉に悪影響を及ぼすことを懸念したためであった。
宮森小学校に賠償金の小切手を手渡すブース高等弁務官:沖縄県公文書館所蔵
しかし米側は被害者・遺族に対し1万5000ドル以上の賠償を拒否するともとれる発言をおこない、1万5000ドルの賠償請求をおこなった遺族には、その四分の一程度しか支払わなかった。その他の賠償請求に対しても一割から二割程度の少額しか認めず、被害者・遺族・関係者に不満が募っていった。米側の態度は時とともにさらなる硬化を見せ、スミス司令官は被害者・遺族の賠償請求について「政治的に利用している」「いままでの支払った補償金は東洋で支払われたことがない高い金額」などと一方的に批判し、事故を起こしたパイロットを処分していないことも明らかにした。
アイク訪沖と政治的決着
こうした米側の対応に対し、事故の被害者・遺族・関係者は米軍被災者連盟などを結成するとともに、石川ジェット機事件賠償促進協議会(賠促協)が結成されるなど支援体制も構築されていくが、事態収拾の直接のきっかけとなったのはアイゼンハワー大統領の沖縄訪問であった
1960年6月19日、アイゼンハワー大統領がアジア歴訪の途次で沖縄に訪問することになり、これに関連して賠促協がアイク訪沖の前日に宮森小学校から那覇まで請願デモをおこなうことを11日に決定した。これと前後してマクロ―レン空軍長官行政補佐官が沖縄に派遣され、当時の行政主席であった大田政作主席が提示していた「査定額プラス・アルファ方式」を軸に10日から交渉がもたれる。そして6月13日、賠償査定額に加えて一律2000ドルを支払うことで双方が譲歩し解決がはかれることになった。
アイク訪沖について抗議の横断幕を掲げる沿道の人々と警護の米兵:沖縄県公文書館所蔵
ただし米側はこの2000ドルの支払いについて「贈り物(ギフト)」というかたちをとり、米側の恩恵によるもとした。また米軍スポークスマンは、マクローレン補佐官の訪沖はアイク訪沖が表沙汰となる以前から決定していたことであり、「脅迫的デモ」はこのたびの事態収拾とは関係がないとした。ここには民衆の声の高まりによって米側が譲歩したことを、「悪しき前例」としないという米側の思惑が読み取れる。
「島ぐるみ」と500ドル
それでは大田主席は米側から一律2500ドルの支払いという譲歩を引き出しながら、なぜ一律2000ドルの支払いで賠償交渉を妥結したのだろうか。つまり、この「500ドルの攻防」をどのように理解したらいいのだろうか。
琉球新報当該記事は、
翻訳に当たった保坂廣志さんは「2500ドルの上乗せに応じた点に米側の焦りがみえる。一方で琉球政府側があえて2千ドルで妥結したのは、早期に政治的決着を図りたいという思惑があったからではないか」と分析している。
との識者の分析を紹介している。それでは琉球政府側の「早期に政治的決着を図りたいという思惑」とはなにか。
櫻澤氏によれば、墜落事故の賠償について、アイク請願デモには自民党も参加し、賠償を求める市民大会には社会党・社大党・人民党まで参加するなど、賠償問題の解決はある種の「島ぐるみ」での運動となった。
しかし50年代の土地闘争の「島ぐるみ闘争」も、ぎりぎりの一線で「島ぐるみ」が発動したことは櫻澤氏がこれまで解明してきたことであり、保守・革新そして琉球政府と米側など、様々な立場の思惑と対立・協調のなかで、墜落事故の賠償交渉において「島ぐるみ」を維持するには2000ドルが限界であり、2500ドルの要求は「島ぐるみ」を崩壊させるものであったと推測される。大田主席そして琉球政府には、「島ぐるみ」を維持するための「500ドルの攻防」があり、そこに「早期の政治的決着を図りたいという思惑」があったのではないだろうか。
墜落事故被害者を見舞う大田主席:沖縄県公文書館所蔵
いずれにせよ櫻澤氏がいうとおり、墜落事故そのものは偶発的なものだが、基地が沖縄に集中し無法な運用がおこなわれるなかで、起こるべくして起きたものである。そうしたなかで沖縄住民が権利の一つ一つを自らの力で獲得しなければならなかったことは、本土の戦後と沖縄の戦後の明確な違いの一つである。そして土地闘争など米側への抵抗が顕在化した後の宮森小の墜落事故は、さらに抵抗の軸が人権擁護の問題へと具体化していく重要な転機になったという櫻澤氏の指摘は、非常に重要なものがある。そして、その指摘は現在の沖縄の基地問題にも通ずるものと思われる。
いまなお各種資料を博捜し事故の真相を究明する「石川・宮森630会」に敬意を表し、また墜落事故の犠牲者に心から哀悼の意を表し、擱筆したい。
トップ画像:宮森小学校に墜落炎上したジェット機の残骸(琉球新報2018年6月29日より)
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