仮面ライダー555 パラダイスリゲインドについて話をさせてくれ
※ネタバレ全開なので未だご覧になられてない方はご注意ください。
公開から1週間ほど経って、ようやく今日映画館に足を運んできた。(サムネはパンフ)
ただ最初に述べておくと、感情がグチャグチャになってしまっている。普段noteの記事では一人称を「私」に統一してるんだが、今回はもう「俺」でいかせてほしい。じゃないと感情の吐露が間に合わない。
平成ライダーの中で555が1番好きだ。
スタイリッシュでスマートなライダー達、悍ましくも芸術的なデザインのオルフェノク、重厚なストーリー、一癖も二癖もあるが憎めなく愛らしい登場人物達。
そのどれをとっても自分にぶっ刺さって、ずっと555が好きだ。
だから20周年で新作が登場すると聞いた時は胸が躍った。
ひゃっほい!!
俺たちの555が帰ってくるぜ!!!!
そんなテンションだったんだが、映画館を後にした俺は信じられんくらい落ち込んでしまっていた。予定では「パラリゲめっっっっちゃくそ面白かった!!! 最高だぜ井上敏樹よぉ!!!!」みたいなツイートをする気満々だったのに。
いや、最高だったのは確かなんだ。
徹頭徹尾井上節全開の脚本と演出、オリジナルキャストで織りなす20年振りの555はとても面白かった。疾走する(井上敏樹の)本能。
ミューズのデザインもスタイリッシュだし、動きやシステムもかっこいい。変身者の胡桃玲菜もいいキャラをしていた。あと「変身!」の掛け声がキレがあって好きだった。
ドンブラを経たせいかよりなんか色々ぶっ飛んでたし、これはこれで面白い。そしてオリキャラ達も、真理は真理だし、草加さんは草加さんだし、海堂は海堂だし、たっくんはより渋くなってたっさんだった。
なんで草加雅人と北崎がしれっといるんだよって最初思ったが、そんな疑問がどうでも良くなるぐらいぶっ飛んでて最高だった。
ネクスト555のアクセルはクソ格好良かったな……。
シナリオ展開も自分好みで、これだよこれ、こういう555を待ってたんだぜ! という気持ちはものすごいある。
ラストのノーマル555に変身してjustiφ'sが流れてきた所は思わず座席から身を乗り出してしまった。熱すぎる。熱すぎるぜ。
さて、ここからが本題だ。
俺がなんでこんなに落ち込んでしまったのかというと、恐らく555ファンの間でも物議を醸したであろうたっくんと真理の例のシーンだ。
あれが、あのシーンがなければ、マジで最高だったのに。
正直そう思ってしまった。
(でも井上敏樹だからな……という気持ちもあるけど)
序盤からなんか嫌な予感はしてたんだ。
なんか草加さんが真理にチューしようとしてたし、海堂が「やらせてやれば良かったんだよ!」とか叫んでたし。
廃校での雨宿り。
たっくんが真理に「助けてくれ」と縋りついた瞬間、どうかスマートブレインがタイミング良く襲撃してくれ、と思ったが叶わなかった。
オルフェノク同士で絡み合うシーンは、めちゃくちゃ都合の良い見方をすればオルフェノク態は本人の深層心理 = 精神や心が反映される、という説もあるので性的な交渉ではなく真理がオルフェノクになってしまったが故にようやく魂の部分で互いに触れ合う事が出来た、という描写として解釈しようと思った。
だけど後におもっくそ脱いでいたので「あ、これ無理だわ」となってしまった。終わりです。もう終わりです。あきらめましょう。
何故こんなにこのシーンを忌避しているかというと、俺にとって乾巧と園田真理の関係は「色恋」じゃないからこそ尊いと思っていたからだ。
男と女だからって必ずしも性愛的な関係になる必要はない。
オルフェノクとか人とか関係なく生きていこうという心と同じように、男女関係なく人間として繋がっていける事の尊さをこの二人に感じていたんだ。
だからこそめちゃくちゃショックだった。
5000兆歩譲って相手が草加さんならまだ分かるよ?
異形の花々を彷彿とさせちゃうけど。
でもさ、たっくんは違うじゃん。
たっくんと真理はそんな関係じゃないじゃん!
たくまり派のカプ厨の陰謀か?
畜生、なんでこうなっちまったんだ…。
そんな気持ちでいっぱいだった。
それで厄介なのは、そういう理由でパラリゲ、もっと言うと555自体を否定したくないという自分の心があった。
単に「ふざけんな!」とか「20年ぶりの新作がこれかよ!」とかキレるのは簡単だ。
でもそんな事はしたくない。
誰かが何かを創って他の誰かに提供する時、余程のオーダーメイドでもない限り100%満足させるなんて不可能だ。
作品が自分に合わない、っていうならその作品は自分にとってノットフォーユーなんだと思う。
あんたの為に作った訳じゃないんだよ、っていう。
その作品で喜んでくれる人がいたら、その作品はその人の為にある筈だと思いたい。
だからコンテンツの品質について文句を言う人は苦手で、ネットとかで何かに対してボロクソ言う人には「じゃああんたが自分の気に入る作品を作ればいいじゃん」としか思えない。
そういう考えがあるので、どんな作品でも極力楽しんで触れようと心がけている。不自然な展開でも、矛盾が生じた演出でも、「ひょっとしたらここの行間とか幕間の間にこういう事があったのでは?」「この場面は苦手だけどこう解釈したら納得いくな」とか自分なりに考えて、自分の機嫌をとって楽しもうとしている。
作者にとって「あなたの為に作った」人でありたいからだ。
だが、今回のシーンではどう解釈しても無理だった。
落とし所が見つからない。自分で自分を納得させられない。
そこを飲み込めたら自信を持って「パラダイス・リゲインド最高だった!」と胸を張れるのに。
今朝、劇場に足を運ぶ前に丁度タイミング良くCSMファイズギアが届いた。帰ったら速攻開封の儀を行うぜ!!
みたいなテンションだったのに未だに開封できていない。
どうしてもこの気持ちが拭えないので、パラリゲの感想をネットで探しまくった。どうか俺のこの気持ちを救ってくれ。今の俺は真理を求める草加雅人そのものなんだ。少しだけでもいい、腹落ちできる解釈を俺にくれ。
色々と漁っていると、一つの感想記事に辿り着く。
例のシーンについて、要約すると「死が迫っている中、ずっと寄り添ってくれていた人がオルフェノクになってしまった(=自分の気持ちが分かってくれるかもしれない)巧と、オルフェノクになってしまって絶望している自分の隣にいてくれる人がいる真理。互いにそんな状況であれば縋り合ってしまうのかもしれない」という旨が書いてあった。
あぁ、そうか。
彼らの心情としてはそういう心の動きがあってもおかしくはない。
俺がどうやっても納得する答えが得られなかったのは、俺の中の「こうあって欲しい」という願望が崩されたからなんだ。
555という作品が自分にとってとても大事な作品だから、自分の中の願望は叶えつつも納得したいという我儘な気持ちがそうさせてたんだなと分かって少し救われた。
長々と書いてしまったが、とりあえず自分の気持ちの整理にも繋がったのでだいぶ落ち着いてきたな。
ファイズギアの開封は明日しよう。
多分元気になってるだろうし。
そんで上映期間中にまた555のTVシリーズを見直して、パラロスも観て、もう一度パラリゲを観に行こう。多分今度は受け入れられる筈だ。多分。
夢の続き、改めて見にいくぜ。