「人と成る」と書いて成人と読むが、大人になった訳じゃないんだよな。
諸用があり、今日は久しぶりに街へ出た。
成人の日というのもあってか大層な賑わいで、今年度成人を迎えた(早生まれの方は迎える)人々が街中を嬉しそうに闊歩しており、「あぁ、もうそんな時期か」となんとなく心の中で思っていた。
しかしまぁ、成人とは記号であり名実ともに"大人"になった訳ではないんだよな。そもそもちょっと前まで制服を着ていた存在が一定の時期を迎えた瞬間スッと「私は大人です」と性格や態度を一変できる筈がないというか。
世間に腐るほどいるじゃん、年齢だけ重ねたガキみたいな奴。
果たしてアレを大人と呼べるのかというと甚だ疑問ではあるし、"成人"や"生きてきた年数"というステータスを頼りにするばかりに、精神的な成熟を遂げられない人たちを沢山見てきたので、「生きてきた年数で"大人"と呼べる訳がない」という考えが自分の中に定着してしまった。
そもそも私自身、30代を迎えても自分のことをクソガキだと思っている。
そりゃ社会的な観点では「そこそこ生きてきた者としての相応の振る舞い」を求められるんだが、20代前半の頃に飲み屋で出会った50代の女性が言っていた「私80歳のお婆ちゃんの飲み友がいるんだけどさ、その人に『50代なんて小便垂れよ』って言われたのよ」という言葉を聞いて以来、「幾つになっても自分は若造、年齢を言い訳にせず自分を大人と呼ばない」という誓いを立てた。50で小便垂れなら20なんてクソガキもクソガキなのである。
だいぶ前にも記事として書いたんだが、個人的に「大人は成るものじゃなく成り続けるもの」という考えを持っている。人間は幾つになっても成長出来る筈だし、60を超えて独学でパソコンを学び、80後半を迎えても現役のプログラマーとして活躍する若宮正子さんという女性がおられるくらいなので、年齢を言い訳にして自身の成長を止めてはならないと思う。
大人という存在に正解などはなく、「この歳を迎えたから大人を名乗ってもいい」と言ってしまったらそれはもう只の驕りでしかない。
我々が人間という「考え、成長する」生き物に生まれてきた以上、その特性を活かす生き方をすることが使命なんじゃなかろうかと思う。主語がデカけりゃ思想も強い言葉ではあるが、私は上記のそれを全うして死ねたらそれが本懐だと感じている。
ダラダラと御託を並べてしまったが、結局何が言いたいかというと「記号としての"成人"に満足せず、ずっと大人になり続ける為に考えて行動した方がより成熟した人間になれるのでは」ということだ。
嫌なんすよ、未来ある成人たちが「30手前で酔っ払って交番のドアを破壊し逮捕された」とか「40過ぎた妻子持ちの男が10個下ぐらいの女子社員に不倫を迫る」みたいな行動をしてしまうのが。これらは実際に存在した私の知人であるが、そんな奴らは大人じゃねぇ。もっと理知的で、他者を気遣い、自身の成長をずっと望んでいる人でこそ大人と呼べる存在であってほしい。
新成人の皆さん、これから先しんどい事もあるかと思いますが、より素敵な大人に成れることを心から願っております……!
おわり。
noteに書くテーマを募集しています。よろしければお送り頂けると幸いです。