哲学的ゾンビのような”自分の知覚の外にあるもの”
哲学的ゾンビという思考実験の一端から生まれた概念がある。
ざっと説明すると、意識や感覚というものは自分自身でしか認知出来ない為、自分以外の他者にも意識があるという事までは証明のしようがない。
ひょっとしたら周りの人間はまるでロボットやアンドロイドのように無機的に動いているだけで、意識や感覚、感情なんてものは一切ないのかもしれない。っていう考えから生まれた存在の事を指す。
要は自分以外の人間の知覚なんて確かめようはないから、実は皆人間っぽく振る舞ってるだけなんじゃね?
それって哲学的なゾンビなんじゃね?
って話。
元々は物理主義に対する反証として提唱されたものらしい。
詳しくはググってくれ。
哲学的ゾンビは他人の感覚に対して焦点を当てているが、自分でしか分からないのは何も感覚的なものだけじゃない。
経験的なものや物理的なものだったり、他者に見せることのない極プライベートなものとか、そういうものだって当てはまるだろう。
家庭環境とかも多分そうなんだろうな。
「うちの家ではカレーにこの具を入れてたけど一般的には入れないの?!」
みたいな驚きだってある気がする。
幼い頃なんてそれこそ見えてる世界は家か学校ぐらいしかないので、一度「これはそういうもの」と認識したら、そうじゃないパターンを疑うなんてことは中々出来ないだろう。
「じゃがいも、にんじん、たまねぎ、肉を煮込んでルーで味付けしたもの」という(主に日本における)カレーの一般像は、ひょっとしたら世界からただ無機的に吐き出されたイメージが各々の脳みそに植え付けられているだけの集合知が見せる幻影なのかもしれない。
哲学的カレーゾンビ。
あと、運っていうのもある気がする。
例えばソシャゲのガシャで排出率0.001%のSSRがあったとして、SNSではそれを引いたという報告をするポストが散見されているが、自分は何度やっても全く引くことが出来ない状況だとする。
さて、本当にそのSSRは実在してるのだろうか。
本当にそのSSRはそのソシャゲに実装されてあるのであろうか。
引けないからって詭弁垂れてんじゃねぇと言われたらそれまでだが、これも実際証明しようがない。
まぁそんな感じで、自分の認識と世界の認識が乖離しているような感覚になることが私には多々ある。
これって本当に一般的なの?
こんなん経験したことないんだけど。みたいな。
カレーなり運なりの話は今適当に書いた一例でしかないが、あまりにも自分以外とのズレを感じた時はそういう風に考える事でお茶を濁したり溜飲を下げたりしている。あんまりそういう事をしすぎると常に自分を正当化させちゃうんじゃないかと思うから程々にだけど。
皆さんも自分の知覚の外にあるものに対して違和感を覚えた際は、こんな風に考えてみるのもアリかもしれません。
おわり。