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「憧れ」ではなく「嫌悪」によってパーソナリティを保っている人もいる説

挨拶やお礼が言えない人を不快に感じてしまうのは何故なんだろうかと、ここ最近考えている。例えば「そこの醤油取って」と言われて醤油を取ったのに「ありがとう」の一言もないとムッとしてしまう。いや、「取って」の言い方の時点で結構嫌に思っちゃうな。

別に見返りを求めている訳ではない。「自分はお礼を言われて当然だ」って感じで胡座をかきたいとも思ってないし、そもそも自分が取る行動は「自分の為」に行なっているという認識なので、そもそも「相手の為」なんて思ってもいない。偉そうになりたくないし。

でもなぁ、なんでそういう人にそういう態度を取られると嫌な気持ちになるんだろうか。まず挨拶や礼儀って人類の文化においてどの辺りから重要視されるようになってきたんだ? ちょっと調べてみたら、日本においては飛鳥時代辺りに仏教や儒教が中国から伝来し、礼儀というものが天皇や貴族の間で重要視されるようになったらしい。そんで平安時代には宮廷儀礼や贈答文化が洗練され、社会形成のために必要なものとして扱われていったとかなんとか。

そういう文化が連綿と受け継がれてきて、多分現代人にも遺伝子レベルで刷り込まれているのはまぁ何となく理解は出来る。しかしその理屈ですんなり納得はしないんだよなぁ。なんか個人的な感覚としては原因はもっと別の所にある気がしてモヤモヤする。

そもそも相手に対して礼儀をそこまで求めてない自覚があるんだよな。自分が理想としている社会って”皆フランクにコミュニケーションが出来る”ってのがあって、例えば接客に関してもどんな店であろうが「いらっしゃい、いい感じの商品あったら買ってってね〜」ぐらいの温度感で接してくれた方が堅っ苦しくなくて素敵だと思うんだよな。過剰なまでに「お客様!」って感じで来られると申し訳なく思ってしまう。

だが、それを理想とするものの、何故か店員にタメ口を聞かれたりしたらイラってしてしまうんだよな。秒でめちゃくちゃ矛盾してるんだが、相手に礼儀を求めていない癖に実際に粗雑な対応をされると不快に感じるのが不思議でしょうがない。非常に狭量な人間だな、と自分でも思っているよ。

しかし数日前にふと「そういう人間になりたくないからじゃないか」と気付いた。
なんか「自分に対して失礼な態度を取られた」というより「失礼な態度を取る人物と出会ってしまった」という不快感の方が強いのかもしれない。
私は他人に対して礼儀を求めていないが、私自身が礼儀を欠くような人間にはなりたくないのだ。だから「この人と関わっていたくない」という気持ちが強く出てしまって嫌な気持ちになってしまうんじゃなかろうか。

思えば、私のパーソナリティは「こういう人になりたい!」みたいな"憧れ”ではなく「こんな人間には死んでもなりたくない」という"嫌悪"で構成されてきた気がする。人間社会は共生共栄で成り立っており、礼儀というものは社会生活を円滑にする為に重要なツールだと思う。私は自分の性格上、それを意識しないと生きてこれなかったので、誰かに強要こそしないが誰かがそれを無碍にしている様を見ると「こういう人と一緒にいてはダメだ」みたいなセンサーが無意識に働いてしまってたんじゃなかろうか。それが人格形成に大きい影響を与えてきたんだと思う。

逆に言えば、私は笑顔が素敵だったり対応が丁寧な人が好きなので、そういう人に会うと「この人とコミュニケーションを取ってみたい」とか「この人と仲良くなってみたい」という気持ちが芽生えるのも確かだ。

でも不思議と「そういう人になりたい」という感情までは湧かないんだよなぁ。私は私のことが大好きだが、客観的にみれば「社会的に理解されない人間」と勝手に思っているので、そこら辺の「誰かから見られた自分に対しての自己肯定感の無さ
」がそうさせているのかもしれない。面倒臭い性格だ。本当に。

だから私は私になるしかないんだよな。尊敬する人は沢山いるが、私はその人になんかなれないのだ。どれだけ努力しても、どれだけ足掻いても。「理想上のイマジナリー百舌野」を目指してもなんの意味もない。現実でどれだけ自分の特性を活かして生きていくかを考える方が余程生産的だ。

なんか変に啓発的な内容になっちゃった気もするが、もし「別に見返りも求めてないのに礼を言わないやつに会うと嫌な気持ちになるなぁ」とか思ってる方がいたらこの考えが参考になれば幸いですわ。

おわり。


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