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人間の善性はどこから来るのか

今日、外出時に財布を失くしてしまった。常にズボンのポケットに入れているんだが、入れ方が浅かったのかチャリを漕いでいる途中に落っこちたらしい。

まぁー、焦るよね。一瞬で頭の中に「カードの停止」「免許や保険証の再発行」「勝手に金を使われた場合の損害額」など考えたくない色々が押し寄せてきて吐きそうになった。最後に財布を取り出した記憶を頼りに来た道を戻るが全く見つからず、仕方なく近くにあった交番に寄ってみると丁度私の財布が届けられて中身がチェックされている途中だった。マジで良かった……。

その場には届け主である笑顔が朗らかなお爺さんもいて、首がもげそうなくらい何度も何度も頭を下げた。警官の方が「報労金は如何しますか?」と尋ねるもお爺さんは「受け取らなくて大丈夫です」とだけ答え颯爽と去っていき、私もあんな好々爺になりてぇと強く思ったよ。

そこでふと思ったんだが、人間の善性ってどこから来るんだろうか。
今回はたまたま拾ってくれた方がめちゃくちゃ素敵な方だったから良かったものの、下手すれば極悪人に全て奪われていた可能性もある。金だけではなく名義とか尊厳とか諸々。

私は性善説なんてクソだとずっと思っていて、「人間だって結局は動物、欲があって当然の存在が最初から善性を持っている訳がないだろう」と考えている。
ただ、実際に善性を持っている方は沢山いて、そういう人達に私自身何度も何度も助けられてきた。

人間は社会的な動物であり、社会は共生共栄で成り立っている。互いにスムーズな生活を送れるように善性が生まれてくるというのは何となく理解出来る。
宗教的観点や教育的観点でもそう説かれて育っていくものだろうし、そのお陰で「善性を持って社会生活を送らなければならない」という認識が広まっていくってのもあるんだろう。

だが、例えば「道端に落ちている財布を拾った」というケースでは、目撃者がいない限り金を抜いたりしても基本バレることはない気がする。言い方は悪いがそこで拾得物を自分のものに出来るというメリットが発生しているんだよな。
だけど善性を持つ人はそれをせず、律儀に交番に届けるという選択をする。これが当たり前であって欲しいんだけど、自分にとって得にならない行為を何故自然に行えてしまうんだろうか。

まぁ他人のことは分からないけども、「自分だったらどうするか」と考えた場合、多分悪事に手を染めてしまった時点で多分途轍もない罪悪感に襲われるだろうし、何より「そんな人間に成り下がってしまった」という自分に対する失望が発生するだろうな。

「自分は善性を持っている」なんて驕りたくはないんだけれども、人が善性を持つパターンの一つとして「誰かの為」というより「自分の為」に動いているってのがありそうな気がする。財布を失くして困っている人が悲しむからってのは勿論あるんだろうけど、それ以上に自分自身が抱えている矜持やプライドがそれを許さないからきちんと交番に届けるという選択をするんだと思う。少なくとも私はそうだ。そんな人間になりたくない。

人間という動物の何が凄いって、欲と同時に理性も備えている所だと思う。それがあるから社会が絶妙なバランスで成立し、自分も何とか今の今まで生きてこられている。多分サバンナだったらすぐに喰われて死んでたよ、私なんか。

その理性の部分が善性を生み、善性が共生共栄を実現させているんだろう。そりゃ悪どい奴も腐るほどいるけど、誰かに救われることに感謝してこれからも過ごしていきたいな。

まぁそんぐらいの結論しか出てこなかったんだが、もっとちゃんと知りたかったら心理学だったり社会学だったり色々と調べる必要がありそうだな。時間がある時に図書館にでも行ってみようかしら。

おわり。


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