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雨よ。どうか止まないで。
照りつける太陽と、綿菓子にも似た夏の雲。
思わずむせかえりそうになるほどの、高い気温と湿度。
日焼けが大敵の女子高生にとっては
過酷な環境だけど、
私は、ここにいる理由がある。
風で舞い上がる土煙。
青々とした芝生。
白と茶色の混じったボールが、
金属バットに当たって
甲高い打球音を上げながら飛んでいく。
背番号3を付けた、彼のスイングを見ながら、
私はマネージャーとしての仕事に徹する。
「お疲れ様。」
「はい、いつものこれ。」
『ありがとう唯衣。助かる』
バッティング練習を終えた彼に、
私は氷を入れたタンクから出した水と、
彼がお気に入りの、レモン味の塩タブレットを渡す。
「どう?調子は?」
『打つ方はまずまずかな。ちゃんと打球に角度もついてるし』
『やっぱり、問題は守備と走塁だな…』
「大丈夫?」
「やっぱり足、キツイんじゃないの?」
『大丈夫』
『って言いたいところだけど、正直、まだ100%じゃない。』
『まぁ、守備はともかく、ホームラン打てば走らなくていいし』
彼が今、苦しんでいる足のケガ。
これが皮肉にも、
私と彼の距離が近づく、きっかけになった。
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彼は、野球部に入った時から凄かった。
大きく左足を上げて、タイミングを合わせると
打球は高く上がりレフトスタンドへ。
コーチがノックをすると、
痛烈なライナー性の打球をあっさり掴む。
1年生の夏の大会から、
彼の名前は、スタメンのクリーンアップにあった。
彼とは同じクラスだったから、
部員とマネージャー、という関係よりは
仲の良い友達、って感じだった。
『あぁ…疲れた…』
「今日のロングティー、すごかったね」
練習終わりのマクドで、
体の火照りを鎮めるように、彼は
Lサイズの紙コップに入ったコーラを飲み干す。
『鬼だよ、あのコーチ…』
「一箱打ち終わりかけたタイミングで、じゃあもう一箱、だもんね」
「すっごい絶望的な表情してたもん」
『こっそり笑ってたの、見えてた』
「ごめんごめん」
『まぁ、いいけどさ…』
苦笑いを浮かべながら、許してくれる彼。
2年生に上がって、
彼が4番、ファーストに固定されるようになると、
野球部のグラウンドから、スーツを着た人が遠くに見えるようになった。
そんな時だった。
その日は春季大会に向け、近くの高校と練習試合をしていた。
3回の裏。2アウトランナー無し。
右バッターボックスに入った相手打者の打球は
一塁線上を低く飛ぶ、強いライナー性の打球。
引っ張りの守備シフトを敷いていた彼は、
咄嗟に、その打球に飛びついたのだけど。
受け身を完全に取り切れなかった彼は、
思いっきりベースに打ち付けて、
左足首に体重がかかってしまった。
『いっったいぃぃぃ!!!』
彼の断末魔が、そのケガの深刻さを物語っていた。
病院に運ばれた彼の診断は、
左足首の骨折。
金属を埋め込む手術も必要で、
日常生活の復帰には最低半年、リハビリも含めれば
全治までに1年以上を要する、重傷だった。
病室のベッドに、左足を固定され横たわる彼は、
明らかに落ち込んでいた。
なんて言葉をかけたらいいのか、わからない。
でも、私に出来ることはきっと、
普段通りに振る舞うことだ、と思って
「おつかれ~、ほら例のアレ、買ってきたよ」と、
下の売店で売っていた、焼肉さん太郎を渡した。
彼の好物の1つだ。
『ありがと』
湿気が入ってしなしなになった板を
歯で無理矢理ちぎりながら食べていく。
その力の入り方は、
何か、自分に対する無力さをぶつけているようで。
彼がいつもより言葉少なになっている病室が、
それを物語っているようだった。
無事に手術も成功し、長いリハビリが始まった。
足に少しずつ荷重をかけていって、
スクワットやかかと立ちは上手くいったのだけど、
彼の中で、感覚が変わってしまったのか
足の指を使って、ものを掴むことが中々できない。
『はぁ…』
『なんで、こんなこともできないんだろ…』
リハビリ室から戻ってきた彼の顔は、
暗い影の底に落ちて、そこから抜け出せなくなっているようだった。
たぶんもう、気持ちが完全に折れかかっていたんだと思う。
だから私は、
「気持ちは、折れたらそこで終わりなんだよ?」
と、思わずストレートな言葉を吐いてしまった。
しまった。と思って、私は慌てて
「でも、1人じゃ気持ちは簡単に折れると思う。」
「だから、一緒に頑張ろう?」
「2人なら、折れないよ、絶対。」
これは、私の本当の気持ち、だった。
そこから彼はもう、弱音を吐くことが無くなった。
主治医の先生も、ビックリするほどの回復ぶりで
私たちが3年生に進級する前に、
彼は、再びグラウンドに戻っていた。
でも、彼の調子はずっと上がらなかった。
一度こぼした水が二度と還らないように、
変わってしまった感覚を戻すことは出来なかった。
それでも、彼は変わる前のものを必死に取り戻そうとしていた。
だからこそ、
「足、上げなくていいんじゃない?」という私の言葉が
彼の中で衝撃的だったんだろう。
すり足に変わった、彼のバッティングフォームと共に、
打撃成績も上向きに変わっていって、
私たちは、甲子園を目指すための
最後の県大会に突入した。
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1回戦。
緊張するだろう最初の打席で、いきなり先制のチャンス。
彼は怯むことなく初球を振りぬき、
左中間のフェンス直撃のタイムリーツーベース。
最後の打席では、相手を突き放す
バックスクリーンへの2ランホームラン。
見事、初戦を突破した。
その後の彼も調子良く、
準々決勝までの成績は
打率4割越え、本塁打2本、8打点と大活躍。
そんな中で迎えた準決勝。
ここまでずっと優勢で進めてきたウチの野球部が
珍しく1点差で追いかける展開。
3-2で迎えた9回裏。
2アウトから、3番が四球で出塁した。
ざわつくベンチ。
でも彼は、いつものように落ち着いた表情で
右バッターボックスに立った。
『お前が何を投げたいか、わかってるぞ』
そんな目線で、マウンドを一瞬見つめる彼。
初球。
外角低めにきたスライダー。
いつもより、少しすり足を遅らせて、
目一杯、右足に荷重をかけて、
バットを振りぬいた。
ひときわ甲高い音を奏でた打球は、
低く強い弾道を描きながら、レフトスタンドへ。
逆転サヨナラ2ランホームラン。
ホームベースでもみくちゃにされる彼の笑顔。
ベンチで見ているこっちまで、嬉しくなった。
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ついに、明日は決勝戦。
これに勝てば、
彼が夢見た、甲子園へ。
でも、私は正直、複雑な気持ちだった。
もちろん、勝てば最高だ。
でも、もし負けてしまったら、
彼と私の夏は終わる。
夏が終わった後、
彼は、アメリカの大学への推薦入学が決まっていた。
つまり、彼が旅立ってしまったら
もう二度と、会えないかもしれない。
そうか。
勝っても負けても、
会えなくなる運命なのか。
それならばいっそ、
明日なんて、来なければいいのに。
私はそんな、歪んだ思考に陥ってしまっていた。
でも、そんな私の思いを叶えるかのように、
私たちの町に、台風が近づいていた。
『明日はたぶん、試合無いだろうな』
「うん、そうだね」
『練習もできないだろうから、とりあえず家で出来ることをやっておくよ』
彼からのそんなメッセージでさえ、嬉しくなってしまっていた。
翌日。
予報通り、外は横殴りの雨と強烈な風。
決勝戦は、順延になった。
神様。
どうか、この雨を止まないようにしてもらえませんか。
こんなこと、願っちゃいけないのはわかってるんだけど。
今、彼を引き止められるのは
それしかないと思ったから。
でも、現実は残酷で。
相手の先発ピッチャーは、
既にドラフト指名の噂が立つほどだった。
150kmを超えるストレートに、
100km台のカーブを織り交ぜた緩急に、
誰も彼も、手が出なかった。
結果は1-0で、私たちの夢は終わり
最終回にヒット1本を返すのが、やっとだった。
そして、最後の夏が終わった彼は、
高校卒業後、アメリカへ飛び立った。
『日本に帰ってきたら、必ず夢を叶えるから。』
「うん、待ってる」
羽田空港の第3ターミナルで、彼を見送った後、
展望デッキに上がって、彼の飛行機が飛び立つのを見ていた。
厚い雲の中に、彼の飛行機が消えていった瞬間、
雨が降り始めた。
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私は彼と同じ、大学生になって、
4年間の大学生活を終えた今、
夜の帳が下りた、羽田空港の到着ロビーにいる。
"全日空 125便は 只今、到着いたしました"
自動放送のアナウンスからしばらく経って、
あの時よりも大きくなった彼が、姿を現した。
「おかえり」
『ただいま、唯衣』
「会いたかった。ずっと」
『俺も』
「ドラフト指名、おめでとう」
『ありがとう、やっと夢と目標が叶ったよ』
「プロ野球選手が夢ってのは聞いてたけど、目標って何?」
『実はさ、アメリカに行った時に1つ、目標を決めたんだよね』
『それは、もし自分がプロ野球選手になれたら』
『唯衣に』
『好きだ、って言うこと』
私の心に、ずっと掛かり続けていた雨が、
ぴたりと止んだ。