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自分からの卒業

※作者の実体験を基にしたフィクションです。


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「おはようございます」



先輩方に挨拶をして、

パソコンを立ち上げる。




入社して約2年。

苦戦していた仕事にも、ようやく慣れてきた。



それでも、事務職という、

あまり新人が入ってこない部署だから、




「あの、先輩。」


"あぁ、小池さん、どうした?"


「この申請、ちょっと変だと思うんですよね」


"どれどれ…ちょっと見せて"



"あー…これはねぇ"


丁寧に教えてくれる先輩。



「ありがとうございます」


"いつでも聞いて!"



こんな風に、先輩たちは

末っ子、あるいは娘のように

いつも優しく接してくれる。



お給料もそこそこ貰えるし、

何不自由ない、


むしろ、恵まれているとさえ、思っていた。




だからこそなんだろう。


その時の私は、

小さな違和感に気づくことが、出来なかった。





最近、食欲が無くなった。


気持ちが高ぶっているのか、

眠る時間も短くなった。



なんだけど、普通に動ける。




調子がいいのかな。




まぁ、確かに

この前、親友の土生ちゃんや、

大学の後輩のいのりちゃんと

食べ過ぎなぐらい、ご飯に行っていたから


無意識に体がバランスを取ろうとしてるのかな。


そう、思っていた。




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『美波、もうお腹いっぱい?』


「うん、いらへんわ」



『大丈夫?』


「うん。最近、あんまり食べへんくても良くなったんだよね」


『そっか…』



元々、少食傾向だった美波だけど、

久しぶりに会ったら、

もっと、その傾向が進んでいて。



彼氏としては、正直心配だけど、

無理してダイエットしてるような風でもないし、

見た感じ、いつもと変わらず元気だ。



俺は、美波の言葉を信じることにした。



でも、


一緒に帰っている時、

繋いだ手が、やけに軽く感じられて。




その悪い予感は、




数ヶ月後、的中することになる。




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毎年ある健康診断。


その途中、あることを聞かれた。



'最近、ダイエットされてます?'


「いえ、特には…」


'そうですか。'


そう言って、何かを書き込むと


'じゃあ、次お願いします'


と、案内されたので、向かった。





その日の夜のことだった。



何とも表現しがたい、心地悪さが

頭の中を巡って離れない。



突然、何の脈略も無く、

死ぬんじゃないかという恐怖感が

全身を襲い始めた。


呼吸が激しくなって、

心臓の鼓動が爆発しそうになる。


顔や体から冷や汗が止まらない。



これは、あかんかもしれへん。



救急車を呼ぼうか、と考えた時、

少しずつ、気持ちが落ち着いてきた。


落ち着いてきたからか、

気絶するように、眠ってしまった。




その日を境に、

食べなくても動けた体が、動けなくなって、

働いたり、動いたりするのに

前の何倍もの力が必要になるようになった。


だからといって、会社は休めない。

上司に無理を言って、

在宅勤務中心に切り替えてもらった。



彼とも、直接会う機会は減っていった。



『美波、今日の調子はどう?』


「せやなー…正直、あんまり良くはない」


『そっか…』


『生活のこともあるし、休めないのはわかってるけど』

『絶対、無理だけはするなよ』


「うん、わかった」



そんな、彼とのやり取りも、

良くて電話がいいところ。

調子が悪い時は、文字を打つことさえ

しんどい時もあった。



それでもなんとか踏ん張って、

必死に耐えていた。





ある日の朝、

いつものようにパソコンのメールを開くと、

見慣れない、人事部からの受信通知。




件名は、面談推奨のお知らせ。




内容を要約すると、

健康診断の数値が悪いから、面談するように。

とのことだった。


前、診断に引っかかった時でも

こんなことはなかったから、

よっぽどのことなのだろう、と

念の為、面談の予約をしておいた。




面談当日はテレワークだったので、

オンラインで、始まる時間を待つ。


どんな人なんだろう。

就活の面接まではいかないけど、

ちょっと、緊張する。



時間になると、画面には女性が現れた。


中元さんという

すごく優しい人で、

健康診断のことよりも、

最近、何があったかを聞かれた。


私は、ありのままに話した。


すると、最後に


'小池さん。すぐに心療内科に行ってください'



「え、なんでですか?」



'とにかく、初診の予約だけは済ませてください'


今まで、優しくて穏やかな口調だったのに、

急に真顔で、きっぱりと言われてしまった。



「は、はい…」


アドバイスをもらいながら、

色々検索して、

たまたま空いていた所を予約した。





診察室に行くと、

若い先生が出迎えてくれた。



入った時に書いた問診票を見ながら


'なるほど…'

'ご自身の意思、というよりは、勧められて…と'


「そうですね、」



その後は、面談同様、

最近起こったことを中心に、

色々と質問をされた。



'そうですか…'


'恐らくですが、小池さん、'


'これは、うつの症状ですね。'



「うつ…?」



'はい。いわゆる、うつ病ですね。'




あ、そうだったんだ。



悲しいとか、

そういう感情は、無かった気がする。


むしろ、ここ最近の私を苦しめていた正体がわかって、

ホッとしていたかもしれない。




病院を出てすぐ、彼に連絡した。


彼からの反応は、

『そっか、今までしんどかったね』

『よく頑張ったよ、美波』


「ありがとう、涙出そうやわ」



『それで、先生は何て?』


「しばらく薬飲んで様子見ましょう、やって」


『そっか。』

『落ち着いたら、会社にも相談してみたほうがいいかもね』



「うん、ありがと」



彼と話して安心したのか、

急に疲れがやってきた。



とりあえず、お薬飲んで寝よう。




これが、思わぬ出来事の始まりになるなんて。

この時の私は、知る由もなかった。




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それは突然、夜中にやってきた。



今までに経験したことのない息苦しさで

目が覚めた。


胸が、ぎゅんと締めつけられる感覚。



これはホンマに、あかんかもしれん。



私は何故か、

咄嗟に彼に連絡していた。



『ん…どした…?』


「く、苦しい…」


『美波、大丈夫か?!』



「あかん…かもしれん…」


『すぐ行くから、まずはゆっくり息吸って!』



「うん…」


『吸ってぇ…吐いてぇ…』



私は彼のリズムに合わせながら、

なんとか意識を繋ぎ、救急車で運ばれた。




原因は、薬の副作用による過呼吸。



そして、私を苦しめていた

本当の正体がわかった。



"これは双極性障害、ですね。"



"小池さんが飲まれていた抗うつ薬なんですが、

双極性障害の方が飲まれると、

かえって症状が悪化してしまうことがあるんです。"


"簡単に言うと、双極性障害は

気持ちのアップダウンが激しくなる病気なので、

抗うつ薬を飲んでしまうと、より落差が大きくなってしまうんです。"


"うつ病と双極性障害は、非常に見極めが難しく

ベテランの医師ですら、誤認してしまうこともあります。"

"だから、そういうものだと思ってください。"



"安定剤を飲めば、すぐに落ち着くはずですよ"




先生の言った通り、点滴を打ったら、

しばらくして症状は落ち着いた。





その後、会社とも話をして、

溜まった有給を消化するついでに、

長めのお休みを取ることになった。




ベッドから起き上がって、

お薬だけ飲み込んで、

また、ベッドに戻る。


何もする気が起きないし、

何も出来ない。


眠れないし、食べられない。



そんな自分に、嫌気が差していた。


自暴自棄にすら、なっていたかもしれない。




それでも、私を支えてくれたのが、彼だった。




『どう?何なら食べられそう?』


「うーん…何にもいらへんかな…」



『まぁ、そう言わないで。』


『何か食べないと薬も効かないし』



「うーん…じゃあ、ゼリー」



『はい、じゃあこれ、食べて。』



少しずつ、口に運んでいく。



『よく食べたね、偉いよ』


頭を撫でて、そう言ってくれる。


何も出来ない私なのに、

ささいなことでも褒めてくれる、彼の優しさ。


暗く落ち込んでいた心が、

少しだけ、あったかくなった気がした。




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美波が病気になったと聞いた時、

悲しい以上に、辛かった。



その理由は、彼女の苦しみを、

本当の意味でわかってあげられないこと。



だから俺は、決めた。


何があっても、美波を支えるって。




美波が、泣いていた時は、



『どうした?』


「なんか…よくわからんけど」

「勝手に、涙が出てくるねん…」



『そっか、しんどいね…』


そう言って、背中をさすった。




美波の心に、暗いものが溜まっていた時は、


たとえ明日の仕事が早くても、

彼女が満足するまで、話を聞いた。




美波が、中々眠れない時は、


一緒に横になって、

彼女の瞼が閉じるまで、手を繋いだ。




前よりも、美波と向き合う時間が増えたからか、



最初は苦しそうだった美波の表情も、


外に出した氷が、ゆっくりと溶けていくように


心なしか、和らいでいった。




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彼が、献身的に支えてくれたことで、



ほんのささいなことで

気持ちが荒れ模様になっていた

最初の頃より、

心が落ち着いてきた頃、



久しぶりに自分でカーテンを開けると、

空が、高く見えた。



彼が焼いてくれた、

カリカリのトーストも、

1枚は、食べられるようになってきた。



そんな時、

心より先に、言葉が出た。




「出かけてみたいなぁ」




『え、本当に?』


彼の言葉で気付いた。

これが、私の本心なんだと。



「うん、今日はそういう気分やねん」



『じゃあ、いつもの場所、行こうか』



「うん」




いつもの場所。


それは、私がまだ元気だった頃、

彼との待ち合わせに使っていた、カフェ。



私のお気に入りは、ミルクティー。



甘みのあるアッサムに、

お店こだわりの牛乳が合わさって

濃い味わいを楽しめる。



私はそこに、砂糖を入れるから


『それは流石に甘すぎじゃね?』


なんて、彼に笑われたっけ。




そんなことを思い出しながら、

彼と手を繋いで、ゆっくり歩く。



彼の手は、前よりもがっしりとしていて、

より、頼もしくなっていた。




カフェに着くと、


『ミルクティー、2つ』



「え、コーヒーじゃないん?」


彼と言えば、アイスコーヒーがお決まりなのに。



『なんか、今日はそういう気分』



テラス席に座ると、


私はいつものように、砂糖を入れた。



そうだ。せっかくだから


「砂糖、入れたるわ」


『え!ちょちょちょっ』



私と同じ、甘さにする。



『まぁ、美波がせっかくやってくれたし』

『飲むか』



お互いの目を見て、

一口、カップをすする。



『あっっま!』


「ふふっ」


そのリアクションがおかしくて、

つい、笑ってしまった。



『よかった』


『美波の、笑顔が見れて』



そっか。


私、笑えるようになったんだ。



そんな、当たり前が、

とても、嬉しかった。







カフェからの帰り道。

ゆっくりだけど、

少し、軽くなった足取りと


青と水色が混じり合う、

そんな空を見て、




私は呟いた。




「卒業したい、今の自分を。」




空にある太陽は、

いつもより、輝いて見える気がした。