『さよなら。』その言葉が言えなくて。
「ごめん、別れよう」
言葉の暴力とは良く言ったもので、
頭を鈍器で殴られたような痛みを
心で感じたのは初めてだった。
『え…なんで…』
「あの、好きじゃなくなったとか、そういうことじゃないんだ」
『じゃあ…どうして』
「これが、理由」
そう言って、由依が机の上に置いたのは
[人事発令書]と書かれた紙。
中身を読むと
2/1付にて 東京本社 経営管理部 への異動を命ず
と書かれてある。
『由依、東京に帰るの?』
「うん。そうみたい。私も正直びっくりした。」
「ここに赴任してきた時、もう戻れないと思ってたから」
『希望出してたの?』
「ううん」
『じゃあ』
「駄目、それじゃ。」
「これはもう、運命だと思うから。」
真っ直ぐな目で、意志を伝える由依。
こうなったら、彼女はブレない。
僕は、彼女の思いを受け入れることにした。
でも、あまりにも突然だし
何より、寂しい。
「ねぇ、ちょっと…なんで泣いてるの…」
『え…』
僕の意志と関係なく、瞳から涙が流れる。
「そっちが泣いたら、こっちも辛くなるじゃん…」
由依は僕を優しく、抱きしめてくれた。
由依の思いが、直接伝わってくるようだった。
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それから由依は、引っ越しの準備を始めた。
『そういえばさ、引っ越しの日ってどうすんの?』
『東京遠いし、1日はかかるでしょ』
「そうなんだけどさ、めんどくさいし、
業者に丸々荷解きお願いしたんだよねー」
「それでさ、有休も溜まってたし、5日休み取っちゃった」
話を良く聞くと、どうやら上司に交渉して
半ば強引に休みを取らせたらしい。
そういうところも、由依らしいというか。
「だからさ、引っ越しの日までここに泊まらして」
『別にいいけど』
「ねぇ、プチ同棲だね」
由依が耳元で囁く。
僕らの、最初で最後の同棲生活が始まった。
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スマホのアラームを切って、目を覚ます。
自分の前には、由依の綺麗な寝顔。
そのまま、反射的にカメラを起動する。
「おい」
ドスの効いた声。
「撮るなら、もっと可愛いとこ撮ってよ」
『いや、寝顔が可愛いから撮ろうとした訳で』
「そんなこと言って…許されると思うなよ…」
そう言いつつも、しっかり頬の赤い由依。
「由依の可愛いとこ、ちゃんと見ててよね」
そう言うと、僕の両手を掴み
頬にそっと口づけをして、ベッドを出る。
やられた。
てか、一人称が由依になってた。
やっぱり、一緒に住んでみないと
わからないことってあるんだな。
柔らかな唇の感触が、いつまでも頬に残っているようだった。
由依お手製の朝食を囲みながら、
話題は今度の週末の予定になる。
『週末、由依は何したい?』
「んー、そーだなー」
食パンをくわえながら、思案する由依。
「あ、尾道行きたい」
『尾道か、じゃあ電車か』
「いや、車でしょ」
『いやいや、僕ペーパーだし』
「私がいるじゃん」
『そりゃそうだけど…』
「じゃあ、決定ね」
結局、押し切られてしまった。
彼女との最後の旅行だし、
ここは意見を最大限尊重することにした。
『最後の』
この言葉が重くのしかかる。
でも、せっかくなら今までで最高の思い出に。
思いを胸に、パソコンを開いた。
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迎えた週末の朝、レンタカー屋に向かい
契約を済ませると、
バックヤードから出てきたのは
真っ赤なGR86。
由依が「たまには、かっこいい車に乗りたいなー」
と言うので
色々調べた結果、これにたどり着いた。
運転席に座り、感触を確かめる由依。
「うん、いいじゃん」
どうやら、気に入ってくれたらしい。
アクセルを踏み、ゆっくりと走る。
それでもスポーツカー特有の乗り心地はわかる。
高速に入るためにアクセルを開くと、
心地よいエンジンの音が響く。
境目の部分でガタン、ガタンと
リズム良く車が跳ねる。
運転している由依もどこか楽しそうだ。
サービスエリアに着くと、
「うーん、疲れたぁ」
『ありがと、お疲れ様』
「ねぇ。由依、コーヒー飲みたいなぁ…」
上目遣いで、指をつんつんしながら見つめてくる。
また一人称が由依になってるし。
これは甘えたモードだな。
そう感じて、互いの腕をクロスし
手は恋人繋ぎで、自販機の前に立つ。
僕はいつも由依が飲んでいる、ブラックを選んだ。
「ちがーう」
顔を左右に振る由依。
ミルク多め、砂糖多めのボタンを押す。
「今日はこっちの気分」
自販機の扉を開けて、ホットコーヒーを出す。
「ねぇ、ふーして、ふー」
うるうるした目でこちらを見つめる。
今まで見たことのない甘々っぷりに
ノックアウト寸前だが、何とかこらえて
カップを外して、何度か息を当てる。
「ありがと」
「じゃ、行こ」
由依の方から手を出して、車へ戻る。
サービスエリアを出て、最初の目的地は
尾道の離島にある、お好み焼き屋。
車を停め、店の中に入ると
数席の椅子と、テーブルの上に敷かれた鉄板。
"いらっしゃい"
優しそうなお母さんが出迎えてくれた。
店の中には、至るところに
アーティストグッズが置かれている。
「わぁ、すごいね…」
"これね、全部ファンの人が置いてったの"
話には聞いていたが、ここまでとは。
早速、おすすめの特製お好み焼きを注文する。
お母さんが目の前で1つずつ作る。
鉄板に焼き上げられる音が気持ちいい。
"はい、お待ちどうさま"
「いただきます」
『いただきます』
コテで均等に割ってから食べる。
餅の溶けた感じに、イカの食感、
キャベツとお肉の甘さと、甘辛いソースが
絶妙に絡み合って、とても美味しい。
由依も満足そうな顔を浮かべている。
あっという間に平らげた僕らは、
尾道市内に戻り、駅前の駐車場に車を止めると
商店街を散策することにした。
昔ながらのアーケード。
飲食店を中心に、色々なお店が並んでいる。
「あ、ここ入りたい」
由依の目に留まったのは、
帆布を使った製品を扱うお店。
小物からカバン、帽子にエプロンまである。
オレンジ色のカバンを手にとって肩にかける。
「どう?」
『うん、似合ってる』
「ありがと」
ちょっと不満気な表情だったので
あ、そういうことかと察して
『かわいいよ』
「そーう?」
嬉しさを隠す由依。
でもバレてるぞ。
だって頭から音符出てるし。
『気に入ったんでしょ?買うよ』
「いいの?」
『いいよ、思い出だし』
心がチクリとしたけど、留めておくことにした。
その後は、博物館に入ったり、
おしゃれな喫茶店で一緒にあんみつを食べたり、
港にあるベンチに座って、何気ない話をしたり。
アーケードを進むごとに、思い出が増えていった。
商店街を抜けて、左に曲がると
山の頂上へ向かうロープウェイ乗り場が。
並んで乗ること数分。
頂上にある展望台に着く。
上から望む風景は、
連なる島々と建物が入り混じっていて、
傾く西日が入り江に反射して輝いている。
「綺麗…」
柵に肘をつき、遠くを見つめる由依の横顔。
美しくて、つい見惚れてしまう。
僕の目線に気づいたのか
「何、恥ずかしいんだけど…」
『いや、あんまりにも綺麗だからつい』
「またそう言って…」
頬を赤く染めながら、視線を外に戻す。
「あのさ」
『何?』
「ありがとね、わがまま聞いてくれて」
『由依のためなら』
「優しいよね、ほんと」
「だから、甘えちゃってたんだろうなー」
「でも、もうそんな自分とはさよならしたい」
「誇れる自分になるために。」
「だから、決めたんだ。1人になるって。」
「ごめんね、最後まで自分勝手で。」
『ううん。僕は、由依の思いを尊重したい。』
『僕が由依に出来る、唯一の恩返しだと思うから。』
『うん…ありがとう』
由依の目が微かに潤っているように、僕には見えた。
帰り道。
助手席でスヤスヤと眠る由依。
その顔は、いつもの寝顔と違って
何かが解き放たれたような、そんな顔だった。
安堵と寂しさが入り混じる。
追越し車線を通り過ぎるヘッドランプが
ゆっくりと流れていく。
このまま、時間もゆっくり流れてくれればいいのに。
そんな思いを捨てきれず、僕はただハンドルを握る。
月の光に照らされて、赤く輝く86。
サービスエリアのアイスコーヒーは、
やけに苦く感じた。
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週明け、由依との別れの日。
キャリーバッグの上に、お土産と弁当を持って
新幹線のホームに向かう。
少しずつ、交わす言葉が少なくなる。
これ以上話すと、何かが溢れる気がして。
白色の新幹線が飛び込んでくる。
"到着の電車は、20時1分発 のぞみ64号 東京行です"
"本日、東京へ向かう最後の電車です、お乗り遅れのないよう…"
放送が、僕たちの別れを急かす。
「じゃあ、乗るね」
扉の中へ入る。
発車を知らせるベルが鳴り響く。
ベルと共に、由依との色んな思い出が蘇ってくる。
もっと、色んな思い出を作りたかった。
もっと、時間をかけて話したかった。
もっと、一緒にいたかった。
でも、由依の思いを否定はしたくなくて。
でも、由依に少しでも恩返ししたくて。
ぐちゃぐちゃになる感情。
今の僕には、この言葉しか出てこなかった。
『由依。今までありがとう。』
『またね。』
「こちらこそありがとう。じゃあ。」
空気音を立てて、重い扉が閉まる。
由依を乗せた新幹線は、東京に向けて走り出した。
溢れる涙と一緒に、この後悔も流してくれればいいのに。
由依に伝えたかった最後の言葉。
それは、さっきとは全く違う言葉だった。
僕の気持ちは、由依のほうを向いたままで。
でも由依はきっと、僕に前を向いてほしかったはずなのに。
『さよなら。』
その言葉が、どうしても言えなくて。
僕の心は、ホームに置き去りのままだ。