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見えないタスキ
命は、しばしばリレーに例えられる。
救急医療の密着番組には「命のリレー」なんて言葉がよく使われるし
もっと言えば、
自分の上には親がいて、祖父母がいて、曾祖父母がいて…というように
繋がれてきた歴史も、「リレー」とみなせるかもしれない。
その「リレー」が自分で途切れてしまうかもしれない、と分かった時
彼女は、どういう風に考えて、決断するのだろう。
『おはよー!』
「おはよう、やま」
『はい、これノート」
「やま、いつもありがとう』
週末の朝はいつも、やまが必ず病室まで
宿題とノートを持ってきてくれる。
私がこんな風になってからも、
親友として絶えず接してくれるのは
本当にありがたい。
「どう?状態は?」
『埋め込んだ最初は結構、調子良かったんだけどねぇ』
「そっか…」
「でもまた調子が良くなれば、また一緒に学校行けるもんね」
『うん』
そう、一緒にやまと学校に行けるなんて。
もっと病気が酷かった時には、考えられなかったんだから。
私が病気を発症したのは、中学生の時。
最初は息切れから始まったけど
時間が経つにつれ、
どんどん動くことが辛くなってきて
私が心臓に大きな爆弾を抱えていることは、
紹介状を持って親と行った、大きな病院で知ることになった。
しかも、原因は不明。
怒りとも悲しみとも違う、やり場の無い感情を
どこへ置いたらいいのか分からなくて、
反抗期という言い訳を傘にして、親に当たり散らしていた。
飲み薬から始まった治療も、
症状は良くなるどころか、悪くなる一方で。
ありとあらゆる治療法を試したけれど、
それさえも無駄、だとばかりに病気が跳ね除けて
私は、入退院を何度も繰り返した。
消去法で選ばれていく治療と共に
自分の生命が削られていくような感覚を覚えるようになった頃には
私は、親に反抗するエネルギーどころか
病気と闘う力さえも、無くしかけていた。
そんな中、私を支えてくれたのは
やまと、やまのお兄さんだった。
やまには
「私、もうダメかもしれない…」
『うんうん…』
『辛いもんね、しんどいもんね…』
私の心の暗い部分を受け止めて
涙が止まらない時には、いつも背中を撫でてくれた。
お兄さんは
"たとえ、しーちゃんやご両親が諦めても、俺は最後まで絶対に諦めないから。"
"俺の諦めの悪さは、しーちゃんも知ってるだろ?"
私のために、友達との約束を断ってまで
病気の勉強をして
両親と良く話をしていた。
そんな中、主治医の先生から飛び込んできた
とある話。
'心臓移植の適応要件を満たせるかもしれない'
要件を満たせば、補助してくれる機械を
移植が叶うまで付けることができる。
リハビリを頑張れば、日常生活に戻ることも出来るという話だった。
当時の私は喜んで、その手術を受けた。
結果は、成功。
私たちは高校に進学した。
中高一貫だから、高校生になっても同じ学校。
久しぶりに日を浴び、教室で授業を受けて
放課後は友達と一緒に、ショッピング。
特に、やまとのカラオケは
ドリンクバーから何杯も持っていって、
お母さんに怒られるギリギリの時間まで
喋ったり歌ったり。
ここまでは、良かったのに。
機械が頑張ってくれているけれど、
あくまでも補助的な役割だから
私の体に少しずつ、限界が見え始めていた。
そして今、
通算で家より寝た時間が多いであろう
病院のベッドへ、戻ってきてしまった。
『ヤバ!もうこんな時間じゃん』
「どうした?」
『夜からバイトなの』
「そっか」
『ごめんね史緒里、また来るから』
「うん、またね」
やまは慌てて、部屋を出ていった。
また、1人になった病室。
こんな寂しくて退屈な日々さえも
あと何日過ごせるのだろうか。
西へ向かう太陽と共に、
私の気持ちも、沈んでいった。
『ただいまぁ』
"お、美月おかえり"
"どうだった?しーちゃんの様子"
『うん、やっぱり落ち込んでた』
"そっか…そうだよな…"
『ねぇお兄ちゃん、どうすればいいかな?』
お兄ちゃんは、うつむいたまましばらく黙っていた。
"あ、そうだ!"
"今日神宮で交流戦あるよな?"
『うん』
史緒里は大の野球好き。
『交流戦のチケットが3人分取れた!』
『だから、ね?』と
大きい目から繰り出される圧力で
私とお兄ちゃんを(半ば強引に)連れて行くと
約束していたのが、この日だった。
"せっかくだから、グッズだけでも買ってくるよ"
これからバイトの私に代わって、
神宮球場まで車を走らせてくれるという。
"美月!"
"気をつけてな"
『お兄ちゃんこそ!』
車に乗り込むお兄ちゃんを見て、
私は、バイト先へと向かった。
バイトの途中、いきなり肩を叩かれた。
'ごめん、ちょっと来て'
早歩きする店長に慌ててついて行く。
店長用の作業部屋に着くと、
ドアを閉めた。
『な、何ですかいきなり…』
'山下さん、落ち着いて聞いてね'
'お兄さんが、交通事故に遭ったそうなんだ'
'おい、ちょっと!!'
私は本能的に部屋を飛び出して、
ロッカーにあるスマホを取り出した。
ロック画面には
大量の不在着信とLINEの通知が。
一気に心拍数が上がり、呼吸が乱れる。
'気持ちはわかるけど、まず一旦、落ち着いて。'
'さっき、親御さんから連絡があってね。'
'病院も聞いてタクシーも呼んである。'
'とりあえずここは大丈夫だから。来たら乗って'
店長に感謝の言葉を伝える精神的余裕もなく、
裏口に着いたタクシーに飛び乗った。
看護師さんに連れられて来たのは、集中治療室。
そこには、
沢山の機械に体を繋がれ、管を通され
横たわるお兄ちゃんの姿だった。
つい数時間前まで元気だったのに。
その光景は、あまりにも現実味が無かった。
両親もついさっき着いたようで、
目の前のことを受け止められてはいなさそうだった。
お揃いでしょうか?
白衣を着たお医者さんが、私たちに声を掛けてきた。
面談室、と書かれた
小さな部屋に案内される。
部屋の壁には、
頭の形をしたレントゲン写真が何枚か貼られている。
全員が席に座ると、
お医者さんはゆっくりと口を開いた。
お兄ちゃんが搬送された時点で
既に意識は無く、懸命の治療を施したけれど
脳に深刻なダメージを負っている状態だった、という。
"そ、それで、治るんですか…?"
声を震わせたお母さんが聞く。
'回復の見込みは、ありません。'
3人とも、言葉を失う。
長い沈黙の後、
'ちょっと、こちらをご覧頂けますか?'
お医者さんが出したのは、お兄ちゃんの免許証。
裏返すと、ある一部分に〇がしてあった。
それは、臓器提供の意思を示す部分。
'正式な判定を下すには、何段階ものステップを踏む必要があります。'
'ただ、ご本人がそういう意思をお示しになっていたことだけは、現時点でお話しておきます。'
'ちょうど、コーディネーターが来ているのですが、説明を受けられますか?'
私たちは顔を見合わせて、一斉に頷いた。
しばらく待っていると、
ボブカットの女性が入ってきた。
コーディネーターさんは、
状況を飲み込めない私たちの心を読み取って
少しずつ時間を掛けて、説明をしてくれた。
どんな些細な質問にも、向き合って答えてくれた。
話が終わると、お医者さんが口を開いた。
'これから、ご家族の意思を決めて頂きたいのですが'
'いきなりのことです。納得いくまでお話して頂いて結構ですので、決まりましたら…'
"いえ、私たちの心はもう決まってます。"
お父さんがはっきりと言う。
昔から他人のことを一番に考えて、
責任感の強かったお兄ちゃん。
そのお兄ちゃんが決めたことなら、
反対する理由はどこにもない。
3人とも言葉は交わさなかったけど、
お母さんの頷きに、迷いはなかったし
私の心も、決まっていた。
私には何より、史緒里の顔が浮かんだから。
お兄ちゃんもきっと、同じ選択をしただろう。
私たちは、許諾書にサインした。
判定は時間を空けて、2回行われる。
判定を待つ間、
看護師さんたちの気遣いで
ICU近くの休憩室に案内してくれた。
ソファに腰掛けた瞬間、
急に視界がぼやけ始めた。
自分の意識より先に、心から溢れ出る。
お母さんがそっと私を抱き寄せて、
お父さんが背中をさすってくれた。
受け止めきれない感情を、
3人で分け合うしかなかった。
それは、突然の連絡だった。
勢い良く飛び込んできた
主治医の先生から告げられたのは、
臓器移植のドナーが現れた、という知らせだった。
時間も時間なので、とりあえず親にLINEをした。
1時間以内に決断をしなければいけない、らしい。
けど、親がここに来るまで、
どう考えても1時間以上は掛かる。
私たちの決断は、テレビ電話で行われた。
親が写ったスマホを先生に見せ、
直接意思を確認する。
私たちは、移植を受ける決断をした。
息つく間もなく、手術の準備が始まった。
マスクをつけ、
鼻と口から麻酔が入ってくる。
記憶が分断され、
意識を取り戻した時には、
何日経っているのかさえ、わからなくなっていた。
後から聞いた話だと、11時間を超える大手術だったらしい。
当然、体にかかる負荷も大きかったようで。
主治医から一通りの確認を受けると、
私はもう一度、眠りについた。
その日、私は不思議な夢を見た。
公園で小さな女の子と一緒にブランコを漕いでいる。
『お兄ちゃん!』
もしかして、私のこと?
しかも、何か聞いたことのある声。
返事に困っていると、
『そろそろテレビの時間だから、おうちにもどろ!』
女の子に手を引かれ、住宅街を行く。
少しずつ、見たことのある景色に変わっていく。
辿り着いたのは、
「ここって…」
やまの家だ。
風邪を引いたやまのために宿題を届けたことがあるから、見覚えがある。
表札を確かめようとした瞬間、
私の意識は、病室のベッドへ戻った。
史緒里の移植手術が成功した、と聞いたのは
数日経ってからのことだった。
そして、私と史緒里は、
ある事実を知ることになる。
お兄ちゃんが判定を受け、ドナーとなったその日に
史緒里が移植手術を受けていた、ということ。
移植した側もされた側も、
誰が対象になったか、を知ることは出来ない。
でも状況から考えて、
可能性があることだけは、確かだった。
お互いにそのことを言い出せないまま、
史緒里は無事、退院した。
「ねぇ、今日あそこ行こうよ!」
学校からの帰り道、史緒里が言い出したのは
よく行っているファミレス。
『お、いいねー』
いつもの窓側、4人席に座る。
『史緒里は黒酢のから揚げでしょ?』
「うん!」
『私はチーズinと…』
タッチパネルに打ち込んでいく。
「あ、それと」
『サラダ、でしょ?』
「やま、流石だね」
注文を送信して、会話に戻る。
『どう?最近の調子は?』
「薬の副作用がしんどいけど、今までに比べたら全然」
『免疫抑制剤、だっけ?』
「そう、ずっとだるさが取れなくって…」
配膳ロボットが料理を運んできた。
「サラダ、取り分けるね」
『ありがと』
『あれ?史緒里トマト食べないの?』
「うん、何か急に食べれなくなっちゃって」
『何か、お兄ちゃんみたい』
史緒里を見ると、
胸に赤い色のタスキが、見えた気がした。
でもこれは、きっと私の幻想。
私は心の奥深くに閉まって、
1皿分のトマトが入った小皿に、手を伸ばした。