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お酒について#51

放送大学、レポートの為に江戸川乱歩「人間椅子」を読んだ、その小説を選んだ理由は数十ページで終わるので、課題を書くにあたって繰り返し読む事が手軽なボリュームであること、知名度はあれども未読であった事。とかく幻想文学といっても細かく分けた定義があって、御教授頂いて頷くばかりでしたが、ドラキュラとかフランケンシュタインの西洋世界が私的に食傷気味で醤油味を欲する無意識が意識化されたのか、選ぶ前から必然だったと言える。

幻想文学は短編であっても、ちょっとした矛盾やそれはないよ、というツッコミを黙認させる骨太の世界観が形成されている必要がある。

「人間椅子」中年の男が椅子の中に入ってその椅子に座る人が男であれ女であれ外人であれ(外人の方が肉感的に嬉しそう)椅子の皮一枚隔てて、とにかく人と触れ合えて嬉しい、SDGs的な人間賛歌の小説である、そして夜間椅子を抜け出してホテルの厨房から食材を盗み出して飢えを凌ぐのだが、その時、自分の体が椅子の形になりすぎて、普通の姿勢が取れず、カニのように這って行くのである、「気持ちわるすぎる」という感想を読者から引き出す事に成功している。

さてそれは実際読んで楽しんで頂くことにして、読書感想文というものは賛同100%であると画一的な文章にしかならない、批評が必要なのである、批評とは内容を悪く言う事ではない、自己の情報と知識と経験で分析する事である。

アマゾンのアレを見よ、全部感情である。本を買って読んで自分に役立ったか立たなかったか、思い通りの内容だったか否か、それは購入金額分、読書で実際使った時間のリターンがあったかどうかを意味する、小説は自己啓発本ではないし、それらは批評でもない。

体育会系でなかったアタクシは小学校の時、図書館に入り浸っていた、かといって本を乱読していたわけではなくて怪人21面相シリーズを数冊読んだくらいで戦争の絵入りの本や(日教組の思惑)や低学年向けの絵本を読んでいた、その空間が好きだったのだろう、それらと同じ棚にドンと存在感を出して鎮座していた貸出可能な「モルグ街の殺人事件」表紙には青と黒だけのインクで刷られたオラウータンが街に座っている写真が載っていた。

江戸川乱歩の心の師匠、エドガー・ア・ランポー。小学校の図書館にも置いてる「モルグ街の殺人事件」その内容における、殺人現場の描写を精神分析的批評の一例としてこれまた放送大学教材「文学批評への招待」で行われると、それは非常にフロイト的な分析、マントルピース(暖炉)から煙突の接合部に頭を下に突っ込まれ、惨殺された女性、それが何を意味するかと書き切っていた。

批評という世界は小学校の図書館に置いてある推理小説の原点をここまで広げられるのか、それもマントルピースを、と多方面に興奮した。この点について、みうらじゅん先生の意見がラジオから聞こえてくるとアマゾンのアレ的に良いと思う。

続く。





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