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身近な平和について~社会的平和編~

 はじめに〜平和構築について〜

 平和という概念を一言で説明するのは難しい。人によって認識の違いもあるからだ。かつて日本の小学校などで教えられていた「平和学習」なるものは、大概昔の戦争の遺構や記念碑を見に行ったり、戦争経験者の話を聞いたりするものであった。それはそれで貴重な体験ではあったけれど、戦争がないこと=平和とは言い切れない。もちろん戦争がないことが平和の大前提ではあるけれど、戦争以外にも大規模な災害や疫病、無政府状態、テロ、組織的な犯罪、民族対立、宗教紛争など戦争以外にも平和を脅かす要因は多い。ちなみにここで言う戦争とは「国権の発動たる戦争」、または「国際紛争を解決する手段としての戦争」という意味である。つまり国同士の武力衝突のことだ。
 そこでまず平和とは何か、ということについて筆者の見解を説明しよう。そこからその平和をどう構築すべきか、またどのように維持していくべきか、ということについて話を進めていく。
 筆者は、平和とは与えられるものでもなければ自然に発生するものでもないと考えている。故に、平和の獲得やその維持には何が必要なのかということを国の指導者、ひいては私達国民一人ひとりが考えていかなければならない。国の安全保障政策には毎年多額の予算が投じられている。それが安いか高いかの議論はともかくとして、それらを自分のこととして考えることも時には必要ではないかと思う。自衛隊や警察、外務省関係者、それに一部の軍事オタクだけでなく、広く一般の国民にも理解しやすい安全保障論議がなされるための一助になることを願うものである。

 身近な平和、もしくは社会的な平和とは


 いきなり平和の話と言われても戸惑う人も多いだろう。特に日本人にとって戦争は遠い昔のことになりつつある。
 だがよく考えてほしい。平和とは我々の日常そのものと言っても過言ではない。もちろん人によっては家庭の事情や学校や職場での事情など様々あるかもしれない。けれど、家の水道の蛇口をひねれば水が出て、電気が使え、公共交通機関や自家用車が走れる道路が整備されていること。これらも例えば大規模な災害や犯罪の驚異に晒されてしまえば脆くも崩れ去ってしまう。近年地球温暖化の影響か、大規模な水害や土砂崩れ、台風の被害などが多く発生している。また、日本列島には火山も多く地震や海沿いなら津波の心配もある。こういった自然災害が我々の日常生活における驚異であることは間違いない。人類の歴史は自然災害との戦いの歴史でもあったと言っても過言ではないだろう。
 こういった災害が発生し、社会が混乱した状態が平和と言えるだろうか。現代の日本では災害時の略奪や病気の蔓延などは少ないけれど、歴史的には自然災害が社会の混乱を招き、戦争や革命に発展した例も少なくない。
 こういった災害に対する備えや、被害を少なくする事業(砂防ダムや堤防の整備など)なども、広い意味での平和を守るための活動と言ってもいいだろう。自衛隊では当初、国に侵攻してくる外国の軍隊から国土を守ることを主眼に組織整備や訓練が行われてきたけれども、現在では災害時の出動、つまり災害派遣も主要任務の一つとされている。また2019年以降の新型コロナ蔓延時においては、翌年にワクチンの大規模接種会場の運営なども行っており、感染症の予防にも協力している。
 こういった自然災害の他にも、身近な平和を乱す要因はいくつも存在する。それが暴力だ。暴力は紛争解決の手段の他、政治的な決定など社会の中で広く使われてきた原始的な手段と言える。狭い意味の平和と言えば、この暴力を排除するということも重要であろう。
 現在、我々が暮らす社会ではこのような暴力を排除するための方策がいくつも存在する。例えば日本では銃器や刃物など、人を殺傷することを目的とした武器の使用や保有に関していくつも規制が存在する。代表的なものと言えば銃刀法であろう。人間、手段を持てば使いたくなるものだし、たとえ使わなかったとしても危険なモノを持っているというだけで相手に対する驚異となるのでその所持を規制するという流れは当然とも言える。
 個人が武装する権利
 一方で、武装を一種の権利と見る人々もいる。基本的にほとんどの人が自衛のために武装していた中世以前はともかくとして、近代以降も例えばアメリカ合衆国(米国)では銃を持つことを一種の権利だと主張する人々もいる。米国では特に地方部ともなれば犯罪が発生して警察に通報しても、到着するまでに時間がかかるため。自衛のためにやむを得ず武装するという人もいるので、国土の狭い国や交通網が発達している国との単純な比較はできないかもしれない。日本でも交通網のまだ発達していなかった時代に、山間部では普通に猟銃などを所持していた人もいたし、人の少ない山間部を移動する郵便配達人は自衛のために拳銃を携帯していたという話もある(警察官よりも早くに拳銃の携帯を認められていた)。
 銃の話は長くなるのでこの辺で止めておこう。とはいえ、日本では交通網の発達や警察組織の拡充、何より法律の規制によって一般の人々の武装は少しずつ解除されていった。もちろん、豊臣秀吉の刀狩り以降、大規模な武装解除の歴史があったことも忘れてはいけない。米国では軍人ではない一般人が兵士として、つまり民兵が独立戦争を戦い独立を勝ち取ったという歴史があるので(もちろん民兵の活躍だけが独立戦争の勝因ではないのだがここでは触れない)、武装することを当然の権利と見なす人がいることは仕方ないことだろう。かつての日本の武士が刀を『武士の魂』と呼んだように、原始的な暴力による人権侵害から身を守るため、銃を持つことをアメリカ市民の権利と考える人もいることだろう。ただ、米国の場合は州によっても法律や住人の考え方も違うし、都市部ではかなり厳しく規制されているので一概には言えないということをここに付け加えておく。
 以上のように現代人にはあまりピンと来ないかもしれないが、武装することを権利と見なす人々も存在する。しかし誰もが武装していれば当然武装した強力な暴力によって事件が発生してしまうこともある。米国でも銃による犯罪は重大な社会問題となっている。
 武器を全廃できればそれは理想かもしれないけれど、純粋に体の力だけになると、今度は力の弱い子供や女性の権利が侵害される危険性がある。だからこそ体格や性別に影響されない銃器という道具を認めるべきという意見もある。そういった考え方は国によっても、また地域によっても異なるだろう。

 暴力の集中、もしくは軍事力、警察力


 さて、国民が銃器で武装することを認めるべきと考える国があるとはいえ、一般国民が軍隊や警察に対抗することはほぼ不可能であろう。民兵が正規軍を撃退して独立を達成した出来事もはるか昔の話である。たとえライフル銃や散弾銃を持っていたとしても、戦車や戦闘機を持つ軍隊には敵わない。規模の大小はあるとはいえ、一つの国においてその国の軍隊以上に強力な武力執行機関は存在しない。常備の軍を廃止したコスタリカや国民全員が武装しているスイスなど特殊な国は例外としても、多くの国々では軍隊がその国の中では最強の武力を保有している。
 暴力が排除された社会においては、暴力そのものが無いことが理想である。しかしそういう社会であるからこそ、暴力が効果を発揮する場面もある。むしろ暴力が排除された社会だからこそ、暴力に耐性のない一般市民に対して暴力を用いた強制や脅しが効くのである。たとえ人を傷つけなかったとしても、銃器や刃物をチャキチャキさせながら値段交渉をする商人がいたとすれば、それは脅しであり目的達成のために暴力を行使しているのとほとんど変わらない。
 このため、多くの国々では暴力を軍隊や警察などの一部の機関に集中させている。これを暴力の独占、または暴力の管理と言う。
 もちろんただ単純に国民から武器を奪い強力な軍隊を作れば良いという話ではない。先述したように、武装することが一つの権利という考え方もあるので、その権利を奪うためにはそれなりの正当性というものが必要である。現代では民間軍事会社と言われる軍隊機能に近い、もしくは軍隊機能そのものを提供する企業もあるけれど、多くの国々では常設の軍の維持には多額の費用がかかる(例えば、千人の部隊を維持するためには千人分の食事を維持しなければならない。しかもその千人にはほぼ生産性がないのだ)。このため民間ではなく国家が後ろ盾となり軍隊を維持・管理している。
 もちろん常設的な軍隊には維持費用以上に大きなリスクが存在する。その強力すぎる武力がゆえに、他国との戦争や国内における人権侵害の手段となることだ。また、軍そのものが政権を掌握して国を乗っ取るというクーデターも過去には多く発生している。最近ではミャンマーなどの例も記憶に新しい。
 軍隊(軍事力)の管理と統制については重要な話なのでまた別の機会に説明することにしたい。とにかく、形はどうであれ暴力を集中させると色々な懸念が出てくることは間違いない。
 カント(イマヌエル・カント:Immanuel Kant 1724~1804)が著書、『永久平和のために』の中で常設の軍隊の廃止を提案したり、今でも常設の軍隊に否定的な考え方を持った人がいる(常備軍に反対している者が必ずしも平和主義者というわけではないところには注意してもらいたい)。だからといって暴力を世間に野放しにしていれば重大な事態になることは目に見えているだろう。暴力の管理についてはまた別の議論が必要ではあるけれど、ここでは平和のために暴力は適切に管理するべきだ、ということで一旦話を終えることにする。
 さて、とりあえず暴力を集中的に管理することで目の前の露骨な暴力は抑えられたとする。しかし暴力が管理されていれば平和なのかと言われたら迷うところではないか。何をするにも政府の監視や武器を持った官憲が常に巡回しているような世界は、ある意味居心地が悪そうである。既に述べたように軍事力は保有しているだけで莫大なコストがかかり、運用すればもっと多くの資金を必要とするので(現代の軍隊は近代以前の比ではないほどコストが高い)、それに頼ってばかりの統治だとやがて破綻することは目に見えている。
 何度も言うように暴力は最も原始的な目的達成のための手段である。権利という概念の存在しない自然の世界では強い個体が弱い個体を襲う、もしくは食べ物や縄張りを奪うことは日常茶飯事である。もちろん自然界では弱い個体でも生き残るための手段や戦略が存在するのだが、人間の社会ではそのような論理は通用しない。仮に人間の社会で暴力を用いた紛争解決や目的達成を続けた場合、人間には科学力や組織力があるので、その破壊力だけでも破滅的な結末を迎えてしまうことだろう。また戦争状態ともなれば正常な社会機能が失われてしまい、犯罪や災害、疫病への対応も不十分となり社会そのものが荒れてしまう。
 だからといって無理やり力で押さえつけたとしても、状況が変わらない限り不満の種というものは残ってしまう。その種が争いの火種となり、紛争を繰り返してしまうこともありうる。戦争が戦争を呼び、一時期の安定はあったものの、長い目で見れば何十年、また百年以上戦い続けている国や地域の例も歴史の中では枚挙に暇がない。

 暴力とルール


 そこでまず人類は暴力に対しある程度の制限をかけることを考えた。現在でもジュネーブ条約などのいわゆる戦時国際法というものが存在する。これは戦争に対するルールを定めたものだ。もちろん、1928年のパリ不戦条約で戦争そのものが違法化された後も戦時国際法は有効である。
 暴力をルールによって統制するという考え方はある意味画期的である。近代以前の戦争でも、例えば古代ローマでは戦争前には様々な手続きをしていた。日本でも戦陣での規則やマナーなどが細かく決められていた。このように細かいルールで縛ることによって自らの暴力に正当性をもたせようとしていたのである。ただこれらもある種の欺瞞であることも事実だ。いくら騎士や武士たちが華々しく戦場で戦ったとしても、その根底にあるのは泥臭い暴力性であることは間違いない。人を殺傷する、もしくは逆に殺害されるかもしれないという恐怖から逃れるため、という側面もあるだろう。野生動物は名誉など重んじないし、逃げてはいけない、などと考えることもない。とはいえ、そういった暴力性も外部に対して発揮されるならある意味抑止力にはなるかもしれないけれど、内部に対して向けられた場合、いたずらに社会の力を消耗させることになる。何より内部で争うことは勝っても負けても損害を受けてしまうということだ。米国で最も多くの戦死者を出した戦争は、第一次、第二次両世界大戦ではなく、南北戦争である。刀や槍で戦っていた時代ならともかく、銃や爆弾で戦う時代に、内部で暴力性を表面化させてしまえばただでは済まないだろう。
 日本でも、近代以前は慣習的に認められていた仇討や果たし合いなども明治の時代になると禁止された。これも単純に野蛮だから認めない、というだけでなく(勿論、明治の日本は欧米列強に対して未開の国ではなく立派な近代国家ですよ、という所をアピールしなければならない、と思っていた部分はある)、内部での暴力で無駄に国力を消耗させてしまうことを恐れていた。後に、明治日本は清国(今の中華人民共和国のある場所にあった国)やロシアと戦うことになるのだが、そういった外国に負けないよう、富国強兵(国を豊にさせ、軍事力を強くする)に励まなければならなかった。明治時代のはじめの頃は、佐賀の乱や萩の乱など、国内で不満を持つ士族(江戸時代に武士だった人々)が相次いで叛乱を起こし、ついに西南戦争(1877)という大規模な「内戦」まで勃発した。
 幸運にも(?)日本における内部の武力紛争はこの西南戦争以降は退潮に向かうのだが、延々と内戦を続け、それが国の発展や住民の福祉に多大なダメージを与えている国も少なくない。暴力はまた新しい暴力を生む。力で一時的にねじ伏せたとしても、その不満は蓄積していき、いつかは爆発する。また、爆発させようとしてそれを狙う者さえいるのだ。

 暴力の原因とその解決方法


 このような事態にならないよう、できるだけ暴力を用いない社会を構築する必要がある。まず暴力を伴う紛争の原因を考えてみよう。わざわざ平和な状態を壊そうと考えている者がいるとすれば、それは現状に対して大いに不満に思っている者がいる、ということだ。その事に対し、何ら対応できる手段が無いということになれば、結局暴力に訴えるしかなくなる。そこで、現状の変化や自らの不満を暴力以外の手段によって行うことが必要になる。いわゆる代替手段だ。
 色々と方法はあるのだが、代表的な手段としては裁判所による裁判と、公職を選挙によって決めるという方法だろう。
 まずは裁判について見て行こう。裁判は、日本では裁判所で行うもので、法律に基づいて判断を下す場所である。誰かが犯罪を犯した時は裁判所によって懲役なり罰金なりの刑罰が下される。これが刑事裁判だ。日本では誰であろうと裁判を受けなければ刑罰は課されない(軽微な行政罰などは除く)。警察などの捜査機関が容疑者を逮捕する時、通常は逮捕状を出すのだが、それを出すのは警察ではなく裁判所である。また、裁判所は人と人同士の争いごとも扱っている。民事裁判と呼ばれるものだ。人(法人も含む)が多数暮していれば権利の衝突は避けられないため、そういった争いごとも公平に裁定してくれる機関が望まれる。ちなみに鎌倉幕府や室町幕府など、中世の幕府の役割は、単に武士たちの頂点に君臨している、というだけでなく武士同士の争い(領地を巡る紛争など)を仲裁したり、時にはどちらか一方の正当性を認めたりする裁判所のような機能も担っていた。
 このように暴力を用いないで紛争解決を行うという手段は画期的である。ただそのためには十分に整備された法律と、その法律を使って裁定が下せるよう公平な司法機関が必要不可欠であろう。
 次に争いの種になる要因といえば権力についてである。二人以上の人が集まれば「政治」が始まる。政治とは複数の人々の間で行われる意見調整のことである。一人の判断は政治にはならないけれど、その判断が多数の人々の生活や行動に影響するのならば政治である。政治と言えば国会議員などの国政が注目されやすいけれど、国政レベルから自治体、それに近所の町内会(自治会とも)レベルの意思決定もまた広い意味で言うところの政治である。
 権力者というのは原始時代から存在していたわけなのだが、その決定過程は常に争いの火種となっていた。世界中の歴史を見ても、とある王族の後継者争いで戦争になった例は数多い。日本の歴史でもそうだ。このため、権力者を決める過程において、またその権力者が意思決定をする場面でもなるべく関係する人々の不満を溜めないようにする制度が求められる。
 現代では権力を獲得する手段として、権力を行使する代表者を選挙によって選出するという方法が一般的である。よく、選挙に立候補する者が選挙スタッフを集めて選挙活動を宣言することを「出陣式」と呼ぶことがあるけれど、これは選挙を昔の合戦に見立てたものだ。選挙と戦闘は必ずしも同じではないけれど、より多くの仲間を集めた方が合戦に有利になることは間違いないだろう。武将としての能力は、単純な軍事指揮権の巧みさだけでなく、合戦までにいかに多くの見方を集めるか、更に合戦後、いかに仲間に対してその合戦による成果(負かした相手の領地や金銭など)を分配するかなどの能力が求められた。選挙に勝つためにはより多くの有権者に支持されるような政策を宣伝する必要があるけれど、これは武将が仲間を集めるために行った宣伝にも近い。
 このように暴力の代替行為として裁判と選挙があるわけなのだが、そもそも不満がたまらないような活動も、暴力の排除には求められている。例えば、経済的格差は不満の原因になりやすい。資本家と労働者との間の経済格差が不満を生み出してやがて革命に発展するという考え方もある。革命の定義は人によって異なるけれど、過激な思想の持ち主ともなれば、そのような革命に暴力を用いる者も少なくないだろう。資本主義経済においては、どうしても持てる者と持たざる者との経済格差が出てしまうけれど、為政者がやれることとしては、経済を流動的にしてなるべく自由な経済活動を促し、低所得者でも努力と知恵によって経済的な豊かさを生み出すことができるようにする必要があるだろう。また、累進課税を適用し、成功者からはより多くの税金を、若年者や貧困層からは税金は少なめにし、公共サービスなどの福祉を手厚くする、という方法もある。これを所得の再分配と呼ぶ。高所得者からあまり多くの税金を取りすぎると不満が生まれるし、だからといって低所得者から大量の税金を取ってしまえば生活がたち行かなくなる。近代以前には重税に耐えかね、土地や家を捨てて逃亡する農民などの被支配者はよく見られた。離散者が多くなれば当然地域の経済活動は停滞し、税収は余計に少なくなってしまう。公共サービスの滞った地域ではまともな社会生活が送れなくなるので、当然治安も悪くなる。治安が悪いということは強盗や死傷事件など暴力が蔓延する原因にもなる。
 他にも人種や民族によって差別的な扱いをすると不満がたまりやすい。本来、国や地方のような一定地域内で住民を差別的に取り扱うことに対するリスクは大きい。例えばA民族とB民族が混在する地域において(民族の定義については色々あるけれど、ここでは問わない)、A民族だけを教育や給付金などで優遇するような政治を行えば当然B民族としては不満が起こるだろう。A民族とB民族の数が同じくらいならまだいい方で、これが例えばA民族が全体の70%、B民族が残りの30%くらいであったら状況が複雑になってくる。歴史的にA民族がBの民族を差別してきたという悪しき伝統があると、差別意識と合わさって互いが互いを憎しみ合うという負の連鎖が起こる危険性もある。ある一定の国や地域内における少数派はどうしても不利になりがちである。これは近代以前にも同様であった。むしろ人権意識や国民意識のなかった近代以前の方が酷い差別も起こっていた。
 選挙は多数派が勝つというのが当たり前ではあるけれども、だからといって少数派が不利になるような制度では、少数者に不満が鬱積してしまうだろう。このため、少数者においても意見を表明し、権利を主張できる場が必要である。選挙制度においても少数者が国や地方の為政者を選びやすいよう、国政選挙における比例代表制など、少数者にも比較的代表者を出しやすい選挙制度が整備されているのである。反対する者の意見にも(一応)耳を貸すことも紛争を予防し、平和を維持するためには必要な制度と言える。
 国家意識とか国民意識というのは諸刃の刃であり、ある一定の人々が言うように酷い差別や排外主義を生み出してしまう危険性もあるのだが、一方で同じ国民なのだからお互いに助け合おうという相互扶助的な感情も生み出す。2011年に発生した東日本大震災は日本の広い地域に甚大な被害をもたらしたけれど、多くのボランティアや寄付金なども集まった。復興特別税のような国民負担もある。だが困ったときに助け合うからこそ、大昔から人間が群れを作り、一定の共同体を作ってきたのだろう。

 制度としての差別


 感情的な差別意識だけでなく、制度として差別を採用した国も以前は少なくなかった。米国の黒人差別は有名だ。しかしそれ以上に有名なのはナチスドイツによるユダヤ人差別であろう。他にもドイツではロマ族などの少数民族も差別され隔離された。
 国策によって差別を推進するメリットとしては、内なる敵を作り出すことによるそれ以外の国民の団結をはかることだろう。一時的な団結は身近な不満から目を逸らさせるのには有効であり、実際に多くの国々でやってきたことだ(日本も例外ではない)。ドイツの場合、ユダヤ人の資産を接収したことで一時的に富を得た。だがそれも一時的である。外国に対する敵愾心をわき立てる宣伝と同じだが一時的な差別政策はやがて破綻する。差別をされた人々は反発をして暴力に訴えるかもしれないし、差別をする方からすれば「ほら見たことか、やはり奴らは危険な連中なのだ」と言ってより一層迫害を強めるかもしれない。
 現代社会においては、制度として差別はなくなった(例外的な国もあるが)。ただ意識的な差別や偏見は未だに存在する。我々にとって一番身近な偏見と言えば例えば血液型だろうか。血液型占いはまだ軽い冗談で済まされるかもしれないけれど、出自や人種による差別は洒落にならない。
 単純に差別は可哀想だからだめ、というわけではない。不合理な差別は社会全体の生産性を低下させる。本来人々が相互に助け合うことのほうが合理的だし発展にもつながるけれど、不合理な差別はその協力の輪を断ち切り、個人を孤立化させる危険性を持っている。


 人間と教育


 ここまで制度のことを色々と話してきたけれど、制度を運用するのも利用するのも人である。人を人たらしめているものは、遺伝子もあるだろうけれど、教育による効果も大きい。ここで言う教育とは単純に学校教育だけでなく、生きている間に学ぶすべてのことである。学校に行かなくても社会で働くこともまた勉強だし、企業の研修は社員教育や従業員教育などと言われ、広い意味での教育と言えるだろう。
 平和な社会を構築する上で教育は欠かせないものだ。価値観は人それぞれなので、個人の内面の自由を侵すような教育は許されない。ただ、社会で生きていく上で暴力を用いることは不利であるということを教えることや、そのように論理的に考えるだけの知能と知識を持たせることは重要であろう。その上で暴力しかない、と考えるのなら仕方ないかもしれないけれど、少なくとも「コイツを殴りたい」と思っても、ここで殴ったら自分が不利になると考えに及ぶことが重要である。ある日突然働いている会社の社長が従業員に対して、お前はクビ(解雇)だと宣告して実際にクビにするのは違法である。だからといって従業員が怒ってその社長を殴ってしまったらいくら社長が違法な行為をしたとしても、(世間から同情されるかもしれないけれど)違法である。警察に捕まってしまうだろう。
 感情に身を任せて行動するのならば野生動物と同じである。自動車が信号無視をしたり一方通行の道路を逆走したりすることは、単純に違反というだけでなく他の自動車や歩行者などを巻き込んでしまう危険性もある。ルールに納得はいかなくてもとりあえずは従う。そして合法的な手段でルールを改定する。もしトラブルがあったとしても裁判など、暴力以外の行動を選択する。そういった考えにいたるには、論理的にモノが考えられるだけの教育が必要である。別に大学や大学院などの高等教育を受ける必要はない。
 それは単純に上の者に従順な人を作りたい為政者のエゴではないか? と批判する者もいるかもしれない。確かに為政者にとって被支配者が暴力的でないほうが支配しやすいことは確かである。だからといって常に暴力が溢れている社会ではまともな経済発展は望めないし、平和な社会とも言い難いだろう。為政者に異議があったとして、それを暴力以外の方法(裁判や選挙など)で実現できるのならばそれにこしたことはないのではないか。

 身近な平和構築のまとめ


 さて、ここでは身近な平和を構築するためには何が必要で、何が大事なのかを述べてきた。ここでこれまでの説明をまとめてみよう。
 平和というものはそもそも我々の日常生活そのものであり、何よりインフラなど社会基盤がしっかりと機能していなければならない。
 それらの日常も、大規模なテロや災害であっけなく崩れ去ってしまうことがある。このように社会に対し打撃が与えられたとしても、そこから復興して元の生活に戻そうとする活動が必要である。そのような活動こそが、平和を作り出す原動力とも言える。
 平和な社会においては、表面的に暴力の排除が望ましいことは既に述べた。だからといって完全に暴力のない無菌室な状態だと内外に出現した暴力には対抗できないだろう。すなわち、暴力が表面上排除されたからといって完全に物理的な暴力が不要になったというわけではない。先に述べたように、大災害や外部からの侵略、内部からのテロやクーデターなどの暴力、破壊力に備える必要がある。今使われていないからといってそれが必要ないというわけではない。ビルの非常口の周りに荷物を置いて、中の人が火事や地震などの際にそこから避難できなかったらどうなるだろう。
 もちろん集められた暴力(軍事力)は大きな殺傷能力や破壊力を有している。これらは適切に管理しなければ、クーデターや外国に対する侵攻など、逆に平和を脅かす原因にもなりかねない。
 少なくとも現代社会において物理的な「力」は必要ではあるけれど、それは適切な管理の元で維持管理されることが必要である、というのが世界的な趨勢と思われる。
 次に、暴力以外の方法によって紛争や権力闘争を解決するための手段と制度が必要である。暴力を排除したとしても暴力を行使されるような原因が残っていればいずれ武力紛争へと発展するだろう。そういったことにならないよう、暴力以外の方法によって問題を解決するための制度が必要となってくる。本稿では裁判や選挙を紹介したけれど、それ以外にも例えばマスコミやインターネットなど情報インフラを通じて意見を表明することができる権利(表現の自由)なども不満を溜めないためには必要であろう。もちろん情報の発信は別の人権侵害を発生させてしまう可能性もある。デマ(嘘)や例え事実だとしてもプライバシーや個人の人格を否定するような情報発信は物理的ではないけれど、一種の暴力と言える。そういったものに対する救済や対抗措置もまたこれからはどんどん必要となってくるだろう。
 経済的な格差や差別、偏見なども人々に不満を持たせ、社会的に不安定になる原因を作り出す。貧困は自己責任であり、怠け者に税金を使うことはけしからん、と主張している人も一定数はいるけれど、一度家を失った者がそこから再起を図ることは難しい。ゆえに教育で職業能力を高めたり、手当を出して生活再建を助けたりすることは結果的に全体の助けにもなる。考えてみて欲しい。生活困窮者が犯罪者となり刑務所に収監されたらそれだけで税収は減るし、それどころかむしろ税金をかけて生活させなければならないのだ。
 刑罰と言えば法律と言う名のルール違反に対する罰則だが、ルールを定めそれに従うということは強者の都合に従うだけ、と思う人もいるかもしれない。けれど、ルールの適用自体が平等であるならば、それは弱者にとっても権利を守るための武器になりうる。先述した暴力の適切な管理にしても、ルールによって縛られていれば、事態に応じた柔軟な対応が難しくなるかもしれないけれど、逆に言えば恣意的な運用が規制されるストッパーの役割を担うことも期待できる。
 こういった物理的な手段も、制度的なものも、運用するのは全て人間である。そのうちAI(人工知能)が軍も行政も支配するかもしれないけれど、現在のところはまだ人間が運用している。
 平和の達成のためには、まず一人ひとりの考え方を変えねばならない。誰もが武装して自分で権利を守るべしという認識が支配的であったらどんなに制度を整えたところで平和な社会を構築するのは難しいだろう。そのためにも教育が必要なのである。ルールに従い、場合によってはルールを改定する。当たり前だと思うかもしれないけれど、野生動物の世界から考えれば決して当たり前ではない。こう言うと人間は野生動物ではないと反論するかもしれない。だが元々は野生動物から進化して社会を作ってきたのが人間だ。人が本来善であるか悪であるかはわからないけれど、人の中に悪い部分があることは否定できない事実(だから毎日犯罪が起こり、世界のどこかで紛争が起こる)。
 特に教育という点は軍隊(物理的な力)やインフラ、それに公共の諸制度などと違い効果が現れるまでに時間がかかる。それでも教育は全ての土台のようなものであり、地道にやっていくしかない。
 以上、見てきたように平和の構築は日々の活動の結果であり、不測の事態に対する備えもまた必要なのである。我々にとって日常生活を維持するということはそれだけでも平和に対し貢献しているということであることがわかっていただけただろうか。
 ただ、我々がどんなに身近な社会の平和を維持していたとしても、外の世界からの脅威によりあえなく平和が砕け散ることはありうる。本稿で論じてきた社会的な平和が「国内平和」だとすれば、外の世界の平和は「国際平和」と呼ぶものである。
 こちらの方がむしろ平和というテーマに近いかもしれない。本稿の身近な平和という考え方を前提に、国際平和について考えて行きたい。
 
 

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