見出し画像

人間喜劇は釈迦の「一切皆苦」につながる〜バルザック 『ゴリオ爺さん』

バルザックといえば、一日に何十杯もコーヒーを飲むくらいしか知らなかったけれど

『ゴリオ爺さん』

いやー、おもしろかった。

前半、半分くらいまでは登場人物たちの説明でかなり退屈なんだけれど(苦痛なくらいに)、その儀礼を過ぎてしまえば、あとは怒涛の展開でページを繰る指がとまらない。

このさき、どうなってしまうんだろう?

という、ジェットコースター的なハラハラ、ドキドキ感で、後半は一気に読み進めることができた。

本作(ゴリオ爺さん)だけでなく、バルザックの小説大系は「人間喜劇」という大テーマ、通奏低音があって、それがとてもうまく機能している(まだ本作しか読んでいないのに、こんなことを言っていいのかと思いつつ)。

複数の作品に登場するキャラクターもとんでもなく多く、ふたつ以上の作品に260人も登場しているとか。

キャラクターの使いまわしといえば、マンガでいうと手塚治虫の「スターシステム」なんかを思い出すけれど

https://tezukaosamu.net/jp/character/star_system.html
Tezuka
 Osamu Official より引用

手塚の場合は「スター(俳優)」システムなので、外観(俳優)は同じでも、人物(演じる対象)は別。

バルザックの場合は、同じキャラクターが他の作品にも「そのまま」に出てくるから、使い回し(ある意味、リサイクル的な)という点では、バルザックのほうが、より効率的だったのかもしれない。

いや、そういうことよりも、単純に、シンプルに、まっすぐ、作品世界(人間喜劇という)をタテ・ヨコ・ナナメに、編み込んで豊かなものにするという意味で意義のあったことなのだろう。

でも、はたしてこれがバルザック特有の手法だったのかといえば、そういうわけでもない(先駆的に採用したとはいえるだろうけれど)。

フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」なんかも素晴らしく、そうした手法がとられているし(時系列的に矛盾や齟齬がみられるところはあるにせよ)

日本人作家だと伊坂幸太郎氏、松本零士氏の銀河鉄道999、キャプテンハーロック、クイーン・エメラルダスあたりの世界観もそうだし。


ということで、バルザックを評価(楽しむ)にあたっては、そうした手法はあまり関係ないのかなと。

シンプル、ストレートに、娯楽性に富んだエンターテインメントということで堪能すればいいだけ。

まだこの一作しか読んでないから、バルザック(の作品、作品世界)に対して知ったようなことはひとつも言えないのだけれど

んー、

小説、文学、芸術における「深さ」という意味では、敬愛するサマセット・モームがいうほどの(バルザックにたいしての)天才性は、私からするとみえない。

かといって、それ(実体があるのかないのかわからない「深さ」)の不在が、バルザックの偉業にけちをつけることはまったくないことも事実。

とにもかくにも、こうして(いまのところは)一作品だけれども、読めて、楽しめたことに感謝する読書体験だった。


いいなと思ったら応援しよう!