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誠実な友だちは「怒り」だけじゃない〜The Artist's Way
以前触れた(引用元は『The Artist's Way』日本語訳版は『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』)
怒りは誠実な友だち
また引用します。
怠惰、無関心、絶望は敵だが、怒りはそうではない。
怒りは友達である。
素敵な友達でも、やさしい友達でもないが、きわめて誠実な友達だ。
それは、私たちが裏切られたときや自分自身を裏切ったとき、かならず知らせてくれる。
そして、自分の興味に従って行動するときであることを告げてくれる。
怒り自体は行動ではない。
行動への招待である。
最初読んだときにも感じたことなんですが
絶望は敵なのかなぁと。
敵になることもあるけれど、友達、これまた誠実な友達になるときもあるんじゃないかなぁと。
怠惰、無関心が敵というのはすんなり入ってきます。
でも絶望は、、と思って考えてたら降りてきました。
絶望は敵なこともあるけれど、友達のときもある。
その違いは、怒りが「行動への招待」であるように、絶望も「行動への招待」につながることがあるからじゃないかなと。
挫折して、止まってしまって、心が折れてしまってという絶望は敵かもしれません。
だけど、行動につながる絶望もあります。
絶望して「うわ、どうしよう、もう駄目だ」ってなることもあるけれど、そこで絶望しつつ「よっし、やるぞ」と奮い立つ(絶望しつつも)こともあると思うんです。
むしろ燃えちゃう、みたいな。
孤軍奮闘に立ち向かうみたいな。
そういう絶望はこれまた誠実な友達なんじゃないかなって。
ときに誠実な伴走者ともいえるかもしれません。(スパルタですが)
それにたいして、怠惰や無関心は行動につながらない、行動への招待にならないから敵なんでしょう。(創造的回避からすれば生ぬるい友だち)
怒りや絶望というと、とかくネガティブに受け取られる場合がありますが、それも目的(ゴール)やコンテキスト(文脈)次第です。(唯一の絶対善、絶対悪は存在しないので)
そうした世間に流布している一方的なイメージに囚われず、自分にとって(自帰依自灯明)どうなんだろう?と考えて、誠実な友達、伴走者というでっかい力を味方につけましょう。