正座もの〜フォークナー 『八月の光』
まだ7割くらいまでしか読んでいないけれど、とんでもない名作、作家に出会ってしまったかもしれない。
すくなくとも自分のこれまでの(けっして多いとはいえないが)読書体験でいえば、とくにアメリカ文学においては超絶、最高峰といえるのではないか。
その作家はフォークナー。
作品は『八月の光』。
こうした小説は日本人には絶対書けない(無理やりひっぱってくるとしたら、思いつくのは高橋和巳の『邪宗門』か)。
アメリカ文学だとジャック・ロンドン。
この選集はすばらしい。
アメリカ文学(と意識して)は読んだものは少ないけれど、そんななかでも、両者(フォークナー、ロンドン)には共通する、土着性とか泥臭さ、無骨、不器用、面倒臭さ等など、そして、ヒリヒリして痛い身体感覚(意識)が感じられる。
これが俺個人のものなのか、あるていどは(普遍や一般化とまではとうてい言えないまでも)他者(相応な数の)と共有できるものなのかはわからないけれど。
『八月の光』にもどって。
本作はアメリカだからこそ生まれたものだろう。
移民、独立、南北戦争、奴隷制度、人種差別、キリスト教(プロテスタント)といった要素、背景がなければ成立しえないから。
冒頭から「なんかこれは違うぞ」という、違和感というか、心してかからないといけない警戒、覚悟みたいなものを感じた。
こういうのって小説だけに限らず、映画なんかでもあるんだけれど、個人的にはそういう予感がするものを「正座もの」と呼んでいる。
たとえば、アメリカの高校における銃乱射事件(コロンヴァイン高校銃乱射事件)に材をとった『エレファント』(ガス・ヴァン・サント監督作品)。
この映画は導入部、しずかに空を流れていく雲のシーン(数分つづく)をみただけで「これはなんかまずいぞ」と、いつのまにか正座をしていた。
まぁ、フォークナーの『八月の光』はKindle端末で、もっぱらお風呂で読んでいるので正座はしないんだけど。
まだ読了していないし、いったいどんな結末になるのか、正座の気持ちでヒリヒリしながら読んでいる。
自分のあまりに浅くつたない(語彙も貧弱で)言語表現では、まったく伝えることができないのだけれど
圧倒的なスケール、奥行き、重層性をもってつむがれ、語られるその物語は、破壊的な叙事詩、クロニクル(年代記)、群像劇となっている。
まだ読み終えていないとはいえ、この先を読みすすめていって、こうした印象、感想がくつがえることはまずないのではないか。
本作を終えたら、つづけてフォークナーの他の作品をと思ってしらべてみると、残念なことにKindle Unlimited読み放題では見当たらない。
『ポータブル・フォークナー』と『土にまみれた旗』あたりを読んでみたいのだけれど、どちらもなかなかに高価で。
ところが、期待せずに板橋区立の図書館で検索したらなんと、どちらもあるではないか。
こうして古典文学の旅はまだまだつづくのであった。