夭折の天才画家〜「穏やかなゴースト」中園孔二
本作も今年のベスト5には余裕で入るであろう力作。
25歳という若さで夭折した、大学(東京藝術大学油画科)在学中から「天才」と評され、ギャラリスト(小山登美夫氏)や美術館館長(金沢21世紀美術館館長 長谷川祐子氏)らに作品を購入され、これからを嘱望されていた画家 中園孔二(なかぞのこうじ)の伝記。
伝記や自伝にはすぐれて魅力的なものが多いけれど(もちろん、著者のセンス次第ではある)その魅力はやはり、じぶんひとりでは体験できないこと、時間、人生を(部分的にではあっても)疑似体験できること。
その「体験」という意味では、よくもわるくも本作は「ギリギリ」や「ヒリヒリ」といった擬音がふさわしい。
そのおだやかな風貌、容姿からは意外なほど、中園は自らを自然に「危険な」場所、空間に置く。
いや、置くというよりも、すすんでそこに分け入り、味わい、そうした体験を自らの精神的な、非物質的な血肉にしていく。
東京藝大時代の指導教官のひとりには「壊れた機械」と呼ばれるほど、圧倒的な数の作品を産んでいたことや、数々の奇行(これはいわゆる「一般」とされる層と相対化したにすぎないのだけれど)等々もあわせて思うと
誤解をおそれずにいうならば、器質的なものもふくめたなにかしらの欠損というか、とてもレアななにかが彼の核(情報的にも物質的にも)にあったのではないか。
ひとはときにそれを障害とよぶことがあり、同様に才能とよぶこともある。
本作、中園の魅力というか、言語化はなかなかできないのだけれど、どうしても惹かれてしまう、忘れられないなにかが痕として残されるのは
画家としての才能、天才性、作品そのものよりも
かつて、こうしたひとの生き様、人生(たとえ25年でも)、思想や思考のかたまりが存在したのだということ。
それに触れられたことへの感謝と感動。
われわれはときに安易に「天才」という言葉をつかってしまうけれど
中園については、そんな言葉をつかうのは失礼ではないかと思える。
そして、本作を読んであらためて痛感するのは、読書は初読どまりでは読んだうちには入らないということ。
わたしの個人的な体験、感想にとどまるのかもしれないけれど、初読後と再読後では、響く、とどく諸々の印象がまるで違っていた。
こわいくらいに。
そして、そのまま手元に置きつづけ、再読をつづけることにある種の恐怖を覚え、手放した。
それでもこの読書体験は消えないだろう。
聖痕のように。