藤井風さんのスピリチュアリティ探求(2)『もうええわ』の回
藤井風さんが作る曲のスピリチュアル性を何だか知らないけど猛烈に解明したい!という欲望に従って始めた今回のシリーズ。(突然何言ってんだと思われた方は、こちらをご参照願いたい)
2回目は『もうええわ』を取り上げてみる。
『もうええわ』は、風さんのセルフライナーノーツにおいて次のように解説されている。
もしも「何なんw」がデビューシングルにできなかったら「もうええわ」でもええわ、と思えるくらい思い入れの強いセカンドシングル。ヒップホップに影響されたサウンドにのせて、ちょっと汚くて暗くて悪い世界を表現できた。
俗世・執着からの解放を裏テーマに、人生におけるあらゆるネガティブなエネルギーに「もうええわ」する自由の歌。
曲に対する思い入れの強さから、風さんのマインドがきっと強く表れていると想像できる。
事実、この曲で歌われているのは「人生におけるすべての重荷の放棄」と「人生のあらゆる執着からの解放」だ。ずばり、スピリチュアルなマインドがなければ書けない曲だろう。
曲の背景を解説している動画から風さんの言葉を拾ってみる。
「わしはこのMVを刑務所かゴミ捨て場で撮影したい」と言いました。
だってこの曲は「人生におけるすべての重荷の放棄」「人生のあらゆる執着からの解放」をうたった歌だからです。
わしらはみんな囚人みたいなもんだと思います。この世において何が大切で何が不必要かに気づくまでは。
わしが信じとるのは、いつでも愛を選ぶこと、そして執着を捨てることが出来たらすべては上手くいくということです。
どストレートだ。
風さんは、私たちが何かにとらわれて生きていることを知っている。
だから生きにくいと感じてしまうことを知っている。
私たちをとらえて離さないのは、常識、経験、負った傷、正しいこと、誰かの価値観、誰かの賞賛…。
生きていると否応なしに降りかかるたくさんの観念だ。
こうしたものは本来、生きる道のしるべとなるはずなのに、どうにも私たちをがんじがらめにする。
そして風さんは、そんな私たちを囚人に例える。とらわれて自由でいられない存在なんだと。
なんとなく気がふさいでしまうが、歌はここで終わらない。風さんが歌っているのは「じゃあどうすればいい?」という、ここからの未来だ。
先ほど触れた風さんの解説によれば、
■何が大切で、何が不必要かに気づくこと
■いつでも愛を選ぶこと
■執着を捨てること
これらができれば、すべてが上手くいくはずだという。
とてもスピリチュアルな考え方なので、すんなりとは理解できないかもしれない。歌詞を取り上げながら、深堀りしてみよう。
さぁ羽のばして ここから
捉われてばっか だったから
行き詰った悦び手放す時は今
心軽くして これから
自由に歩いて みたいなら
すれ違った人だって過去だって怖くない
ここで引っかかるのは「行き詰った悦び手放す時は今」という表現だ。
本来、悦びは手放すものではなく、大事に抱きしめるもののような気がする。ならば、なぜ手放すのだろう?
それはたぶん、大切なものでもぎゅっと握りしめ過ぎていると「執着」になってしまうからだ。
「誰にも渡さない」「ずっと離さない」という思いが強く育ち、いつのまにか悦びが別のものに変化してしまう。とらわれて、離れられなくなってしまうから、心が自由ではなくなってしまう。
もうひとつ気になったのが「すれ違った人だって過去だって怖くない」という部分。
すれ違う人を恐れる心境というのはどういうものだろう。もしかしたら、人に傷つけられた経験を例えているのかもしれない。
過去が怖いのはわかる。いつまでも癒えない心の傷が誰しもの中にあるだろうから。
心に深く刻まれた傷、人生の足取りを重くする重荷を手放せば自由に歩けると風さんは歌う。
ふぅ…。深い。
冒頭からいきなり核心なんだもの。
前提がこれなので、このあとの歌詞がさらに深い世界になることはまちがいなしだ。風さんにしっかりついていかねばと、ハチマキやふんどしを頭の中で締め直す。今だったら、駿台模試・現代文の「解答と解説」が書けそうな気がする。それぐらい真剣に歌詞と向き合っている。
先に進もう。
みんな 先が見えない夜道を
共に 迷い歩く夜更け時
うつむかないで 怯えないで
閉ざした扉 叩いて
ここは「こわがらなくて大丈夫。執着や重荷から解放された世界に行こうぜ」というメッセージ。「みんな」「共に」というワードに1人じゃないんだと勇気づけられる。
もうええわ 言われる前に先に言わして
もうええわ やれるだけやって後は任して
もうええわ 自由になるわ
泣くくらいじゃったら笑ったるわ アハハ…
ネガティブなエネルギーに「もうええわ」するサビに突入だ。
「やれるだけやって後は任して」という歌詞があるが、これはスピリチュアル的にも良しとされる方法だったりする。ずっと握りしめていたら執着になってしまうことはすでに触れたとおり。
傷口はいつかカサブタ
すぐ剥がれ落ちてサヨナラ
心だってそんな風に癒えたらいいのにな
巻き込まんとって泥沼
意味もなくただ傷付けられそして傷付け
繰り返すだけ
意味もなく傷つけあう世界を泥沼と表現し「巻き込まんとって」とお断りしている様子が書かれている。
執着や重荷を手放し、違うフェーズに向かうことを決めたのだろう。
ぬけた 阿呆なゲームいちぬけた
夜が 冷めた風に吹かれてた
ふらつかないで 踏みしめて
内なる風に吹かれて
「ぬけた 阿呆なゲームいちぬけた」は刺さる歌詞だ。
『帰ろう』の「わたしが先に忘れよう」と通ずるものがある。風さんにとって大切なスタンスなのかもしれない。
真っ暗な世界に吹きすさぶ風にはふらつかないようしっかりと足を踏みしめ、自分の内側にそよぐ風には心地よく身をゆだねよう、そんな決意も伝わってくる。
「内なる風」とは「内なる声」と言いかえても良いだろう。自分の中に存在するハイヤーセルフが導いてくれるままに進めばいいのだ。
もうええわ 言われる前に先に言わして
もうええわ 付き合ってあげれんでごめんね
もうええわ 自由になるわ
泣くくらいじゃったら笑ったるわ
1番の歌詞と違っているのが「付き合ってあげれんでごめんね」というフレーズ。いい感じで執着や重荷のある世界とおさらばしている。余裕や達観すら感じる。
夜が更けて 朝の光が顔を出して
さあ、世界が変わる瞬間だ。
もうええわ 甘い夢ばっか見させんといて
もうええわ 要らんことばっか聞かせんといて
もうええわ 手放したいもの今全て この空に捨てて
もうええわ 何が大切なん?よう選んで
もうええわ そう思うならサッサ手放して
もうええわ 自由になるわ
泣くくらいじゃったら笑ったるわ アハハ…
最後にたたみかけるように、もしかしたら言い聞かせるように、執着と重荷がまとわりつく世界とさよならしている。
その世界で見た夢は叶わなかったし、必要のないアドバイスをたくさん聞いた。本当に大切なものをよく選び取って、それ以外は手放してしまおう。その先に待っているのは、とても心地の良い自由の世界だ。泣きながら生きにくい世界に立ち尽くしているんだったら、笑って線をとび越えてやるぜ。
私にはそう歌っているように聞こえた。
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『もうええわ』のMVには、風さんと哀愁漂う3人のおじさんズが登場する。風さんがカッコいいので見落としてしまいがちだが、全員浮浪者だ。
風さんはこう解説する。
このビデオは浮浪者から始まり、ヒップホップ野郎として過ごし、浮浪者として終わります。大切なのは、これはバッドエンドじゃなくてハッピーエンドじゃということ。だって、ビデオの終盤の浮浪者は「放棄」と「解放」の象徴ですから。
さらに、1番の終わりに次の隠しメッセージを組み込んでいるという。
「人は身体への執着を手放したときに初めて生死のサイクルから解放される」わしの信じとる言葉です。
風さんがスピリチュアルな人であることはわかっていたけれど、こんな言葉が出てくるなんて衝撃だった。いまをより楽に幸せに生きるためにスピリチュアル的な思考を取り入れる人は多いが、その先にある「生死」についても理解が及んでいる風さんって…。
私はこの隠しメッセージを「魂が自分の本質的な要素だから、死して身体がなくなってもなんら恐れることはない」という意味だと理解している。本来の自分で生きること、魂で生きることの究極形がそこにあるのだろう。
…とここまで書いてみて、思い出したことがある。
風さんがYouTubeに投稿した昔のカバー動画に「どうか長く生きてください」といったニュアンスのコメントがよく寄せられていたことだ。風さんがピアノを奏でる姿に、どうしてだか儚さを感じる人が多いようなのだ。
なぜなのか知りたくなってコメントを読み漁ってみた。すると「才能がありすぎて、神様が連れて行ってしまいそう」と感じたり、三島由紀夫や太宰治、尾崎豊に重ね合わせて見えてしまったりするのが理由らしい。
私は、もしかしたら、生死への執着から解放された風さんのマインドが、知らず知らずのうちに動画を通して伝わってしまったのかもしれない、と思い至った。
動画を夢中で見ているときは流し目やほほえみに殺られ、放出される色気を受け取めるのに精一杯だったのでわからなかったが、スピリチュアルな思考を持ち合わせ、ほわほわと話す素の風さんを知ってからは、少しその理由がわかった気がしている。