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2020年:ドランとノーラン/ドラン編

忙しくなったり暇になったりを繰り返してうるうち、あっと言う間に前回投稿から4ヶ月ほど経とうとしている。
もはや9月も終盤に差し掛かっているにも関わらず、未だ昨年度観た映画を振り返っている今日この頃。

最近気づいたが、仕事が暇であるほど無理にでも映画を観ようとしている節がある。
時間が余っているからというのもあるが、単純に日々の達成感や充実感が欲しいのだ。
昨年を振り返りつつも、新作映画もマメに観ている(つもり)。
今年は本当に邦画の良作が豊富でとても良い。

さて、話は戻って昨年観た映画。
以前の投稿で俳優に注目してを書いてみたのだが、今回は監督に注目して書いていこうと思う。
そして取り上げる監督はタイトルにもあるように、ドランとノーラン。
たまたま韻を踏む形になってしまったが、グザヴィエ・ドラン監督クリストファー・ノーラン監督である。
この2人の監督、共通することは特に無い(と思う)のだが、昨年はこの2人の作品を複数観ることができた。
そしてそれは、個人的に非常に大きな出来事であった。

まとめて書こうと思ったが、途中から長くなり過ぎていることに気づいたため、前半・後半に分けて一監督ずつ書いていこうと思う。
そこでまずは前半、グザヴィエ・ドラン監督編。
たびたび私の投稿の中に出てきていると思うのだが、それもそのはず、私が好きな監督の一人であるからだ。

ドランの映画を初めて観たのは、おそらくWOWOWでザッピングしている最中に観た「胸騒ぎの恋人」という作品である。
男女の友人が同じ人を好きになるという話なのだが、ストーリーの面白さもさることながら、画面の色使いや音楽のオシャレさも相まって非常に記憶に残った。
当時はドランのことも知らず、ましてや主人公の一人としてこの映画に出演していることなど知る由もなかった。

それからしばらくして「わたしはロランス」という映画の情報を友人から得た。
これ良さそうだよ、と映画のチラシを渡され、そのメインビジュアルの美しさに(これは観たい…!)と思った。
映画のことを調べているうち、監督の紹介文に「胸騒ぎの恋人」というタイトルが入っていた。
観た映画をあまり覚えていない事が多い中、この作品に関してはすぐに思い出した。
あの映画を撮った監督の作品なら、きっと面白いに違いないと「わたしはロランス」を鑑賞。
期待通り、というより期待以上に素晴らしい映画で、私は今でもこの映画が今までの人生の中で一番好きな映画だ。

ドランの作品は、初監督作品である「マイ・マザー」から立て続けにハイペースで製作・公開されている。
そして、ドランの作品の多くはLGBTQ+の登場人物や、家族との関係をテーマにしているものが多く、私の琴線に触れるものが多かった。
また前述の通り、どの映画も画面の色彩や音楽の選曲も良く、観ているだけでとてつもなく素敵な時間を過ごしている気がしてならない。
「わたしはロランス」を観てからというもの、私は監督の作品を欠かさず観るようになった。


そして、昨年はそんなドランの新作映画が2作品も公開された。
「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」「マティアス&マキシム」の2作品である。

「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」 2020/カナダ・イギリス/123分

この映画が撮影されていることは、公開される前々から知っていたのだが、なかなか日本での公開が決まらず期待ばかりが広がっていた。ようやく公開が決まったと同時に、ポスター欲しさに珍しく前売り券を買いに行ったのも良い思い出である。

物語は、若手俳優 ルパート・ターナーが発表した著書に対するインタビューをきっかけに紐解かれていく彼の幼き日々と、今は亡き ジョン・F・ドノヴァンという男の半生を描いたものである。
ルパートのインタビューから遡ること10年前。
主演ドラマが大ヒットし、一躍スーパースターとなって活躍していたジョン・F・ドノヴァン。
しかし、彼は突如オーバードーズ(薬物過剰摂取)によりこの世を去ってしまう。
自殺か事故か、ジョンはなぜこのような末路を辿ることになったのか。
その手がかりを掴んでいたのは、ジョンの秘密の文通相手、当時11歳の少年ルパートであった。

この映画は、手紙のやりとりから見えてくるお互いの環境、心情を通して、社会の不寛容さを描き出した作品である。
ニューヨークで公私共に華やかにみえるスターとして生きながらも、プライベートでは重大な秘密を抱えるジョンの闇。
イギリスで子役をしながらシングルマザーの母と暮らし、学校ではいじめられる日々を過ごすルパートが抱える孤独。
それぞれが胸に抱く暗い影が二人を引き寄せ、そして引き裂いていくといった映画である。

この作品は、ドラン監督が幼き頃、レオナルド・ディカプリオにファンレターを送った記憶をきっかけに生まれた作品だそうだ。(返事は来なかったそうだが)
さらに、ルパートと同じくドラン自身も幼少期から子役として活動していたようで、その境遇も加味されているのではないかと思う。
また、彼が憧れていたリヴァー・フェニックスが出演する映画のオマージュがラストに出てくることも然り、この作品はドランの理想と現実がふんだんに盛り込まれた映画であるようだった。

そして、この映画で描かれる社会(とりわけ芸能界)の不寛容さとは、性的マイノリティーに対する社会のあり方である。
自身のセクシャリティーを公表するよう求める社会、同性愛者を揶揄の対象とするような環境。
ジョンとルパートの視点を通して、それぞれが生きる時代の価値観の変化を明確にし、それぞれの時代において、その不寛容さにどう抗っていくのか、そして社会はどうあるべきなのかを問うような内容となっている。
さらに、10年前と現在を対比しつつも、ルパートのインタビュアーである女性のバックボーンをあえて紐解くことで、社会における性的マイノリティーが抱える問題への社会的な位置関係を提示して、この問題が完全に過去のものではないことも表現されている。

また、ドランの映画に共通する「息子と母との関係」も重要なテーマとなっている。
現在のルパートの著書が「愛する母の思い出に」とあるように、今作では幼少期のルパートと母の関係性が物語の大きな要素となっている。
また、一方のジョンに関しても、彼を取り巻く家庭環境までしっかり描かれているため、息子と母親というテーマがより明確なものとなっている。
ルパートと母の関係、ジョンと母の関係性。
その二組の親子関係に明らかな違いが現れていることも、ドランの理想と現実を想起してしまうのである。

これまでの映画を含めて、ドランが描く「母親」という存在は特徴的である。
優しく、全てを受け入れるような柔らかで象徴的な母親像とは違い、ややヒステリックと捉えられてしまうほど確固たる自我が存在する強い女性として描かれる事が多い。
今回の作品に関してはジョンの母にその特徴が強く反映されているように感じる。
しかしながら、母親の息子を想う気持ちは存分に描かれおり、そして主人公である息子もそれを理解しているにも関わらず、どうしても親子の関係性は拗れている。
互いが相手を想っているのに、その優しさをそれぞれが受け入れられないのだ…。
それぞれの母の思い、そして息子の思いがどのような行く末を辿るのか、これも今作品にとって重要なテーマとなっている。

このような感じで「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」は、”性的マイノリティーと社会“、そして“母と息子”というドランの二大テーマを新たな切り口で落とし込んだ映画となっている。
ジョンの人生、ルパートの人生を辿りながら、それぞれの生き方に想いを寄せる2時間。
ドラン初めての全編英語の作品(基本はフランス語)であったからか、俳優もかなり豪華なので俳優目当てで観るのもありかと思う。

余談ではあるが、序盤にジョンがカメラ目線になり、映画を観ている私たちとがっつり目が合うのだが、そこで流れているアデルの「Rolling in the Deep」という曲、歌詞は以下の通りである。

上手くいってたのに
(出会ったことを後悔させてやる)
覚悟しな
(泣くことになるよ 気をつけな)
愛されてるのをいいことに
(出会ったことを後悔させてやる)
人の気持ちを弄んだ
(泣くことになるよ 気をつけな)
(「およげ!対訳くん」より)

ジョンが出会ったその存在はいかに。


「マティアス&マキシム」 2020/カナダ/120分

舞台はカナダ・ケベック、二人の主人公はタイトル通り、幼馴染のマティアス(マット)マキシム(マックス)である。
マットは弁護士として働き、婚約者もいる。一方のマックスは2週間後にオーストラリアへ旅立つ事が決まっていた。
ある日二人は、友人リヴェットの別宅でいつもの仲間たちと飲んでいると、リヴェットの妹から映画出演のお願いをされる。
誰でも良かったようだが、結局マックスとマットが映画に出ることに。しかし撮影準備が進む中、二人のシーンはキスシーンだと判明する。
最初はその内容に抵抗していた二人であったが、ムキになりやすいマットの性格が引き金となり、撮影は執り行われることに。
しかし、そのキスをきっかけに二人の秘めたる想いが複雑に交錯することに…。
といったあらすじである。

この映画は、ドランが「君の名前で僕を呼んで」という映画を観て、いたく感動したのをきっかけに制作された映画であるらしい。
また、「君の名前で僕を呼んで」だけでなく、「ブルックリンの片隅で」「ゴッズ・オウン・カントリー」、ドラン自身も役者として出演している「ある少年の告白」といった作品に影響されてたようで、映画の冒頭にはそれぞれの作品の監督の名前が挙げられている。
そういった経緯もあってか、この作品はぶっちぎりの青春映画である。
主人公たちは30歳という年齢設定ではあるが、仲間、仕事、恋愛、そして家族といった要素がサクサクと詰め込まれている。
前の「ジョン・F・ドノヴァン〜」が割とダークトーンで展開されていることもあってか、「マティアス&マキシム」は画面のカラーも使われている音楽も全体的に青春のまぶしさを感じさせるような明度の高い印象を受けた。

しかし、この映画を初めて観た時の私の感想は、正直に言うと「わからない」であった。
母国語(フランス語)での映画となると、ドランの映画は“会話の勢い”というものが凄まじい。これでもかというほど、全身で表現するように会話をし、さらに複数人が怒鳴り合いかのようなテンションで喋りまくる。さらに画面は話し手の顔がそれぞれアップで写し出されることも多いため目眩がしそうなほどである。
ただ、今回の作品に至っては(会話は相変わらず凄まじいのだが)、言葉ではなく態度から読み解くような、「察し」がキーとなっているように感じた。
特にマットとマックスに関しては、互いに「言えない」というのが肝になっているため、なおさら「察し」の部分が重要になってくる。
しかしこの表現方法、特に恋愛に関する状況となると、私はとんでもなくそれを感じ取る能力が劣っており、疎い。
なので、初めて観た時は、マットが執拗にシラを切ったりすることや、マックスのあのなんとも表現し難い表情が何を物語っているのか理解する事ができなかった。

しかし、この作品を観た会社の同期にはとんでもなくハマったようで、これまでに見たことないほど熱を持って感想を伝えてくれた。さらに、彼女はこの映画を後輩にも勧めており、そして その後輩も非常に感動したようであった。
その様子を見て、ドラン好きを公言している身としてはなんだか情けなくなり、彼女らの感想をふまえて、もう一度観てみることにした。

実はこの作品が「察し」の映画であることに気づいたのが、この二度目の鑑賞の時である。
初め見た時にわからなかった事情についてようやく伏線を回収できたような気になり、あぁ、この映画は“言葉でなく態度で感じとる”ことが重要になっているのだなとようやく理解した。
相変わらず、色々と仕込まれているであろうメタファーに関しては、未だ気づいていない事があるのだろうが、鈍根の極みである自身がここまで進歩したので良かったことにする。
ただ、この二回目の鑑賞では逆にいろいろ勘ぐり過ぎていた、というのが今の見解である。
というのも、この文章を書いている段階で、やはりうまくまとめる事ができなくなり、先日レンタルしてもう一度観てみたのである。(懲りない)

ここでようやく映画の内容に触れていく。主人公は先述のようにマットとマックス。
マットは終始 情緒不安定か!と突っ込みたくなるほど(言い方が悪いのだが)妙な拗らせ方をした人物で、突然キレだしたり、かと思えば 突然笑い出したりするので、私は初めてみた時、本当にやばいやつかと思っていた。
しかし、今一度観てみたところ、彼が彼なりに混乱している様や、考えないようにしようとして逆に考えてしまうというドツボにハマりやすい人物である事がようやく理解できた。
また、突然笑い出す件については、マックスが可愛くて仕方ないのか!そしてそれを自覚したのか!と私も今ほどようやく理解した次第である。
きっと彼も、私と同じようにというより私以上に鈍感なのだろう。

一方マックスに関しては、感情がなかなか表に出ないような印象で、仲間たちがバカ騒ぎしている中でも脇で微笑んでいるようなタイプ。そのため、私はなかなか彼の気持ちを読み取ることが出来なかった。
ただ、今の感想としては、マットに対する気持ちがあるのに、どうしても言えないというもどかしさが、わかりにくいという印象の根源であったのだろうと気づいた。
この“言えない”という感覚、実は態度にも出すことが許されないんだよな…とマックスを見ながら自身の記憶も呼び起こしたりもした。

また、彼の感情を抑え込むもう一つの要因として、暗い影をもたらしていたのが母親である。
ここまでシンプルに毒親を描いているのはドランの映画においては珍しい。
マットの母親との比較を極端にする狙いもあったのだろうが、なかなか胸が痛いシーンである。
マックスは、顔のアザのせいもあるのか、いつもどこか不安げで、何かを諦めていて、自信なさげで、誰かに慰めを求めたりしない。
きっとそれは家庭環境のせいもあるのだろうと読み解くこともできた。
自分の気持ちの上手い誤魔化し方も、隠し方も、身体に染み付いているのだろう。


そして、登場人物として欠かせないのが、マットとマックスの仲間達である。
特に、リヴェット、フランクに関しては、最高にクールでこの作品には人物たちで、私は正直 主役の二人よりもこの人たちが大好きである(笑)
この人たちのおかげで、映画の青春要素が色濃くなり、なんだかわくわくするような盛り上がりが存在しているのだ。
二人を含めた幼馴染の5人は監督兼マックス役のドランの実際の友人であるらしく、劇中でジョークと飛ばしあって談笑する様に演技感が現れないのはそういう理由もあってのことだそう。言葉に関するゲームをしているシーンが早送りで流れるのだが、これ本気で何時間やったんだろう…と個人的には気になるところである。

さらに、今作における「察し」のプロとも言えるであろう、マットの婚約者のサラの存在は大きい。
きっと彼女がいなければマットはきっと何にもできず、グズグズわらわらとこの先ずっと生きていたはずである。最高に優しく、粋で、ぶっちぎりにカッコいい登場人物であった。

そしてもう一人、この映画に刺激をもたらすのはマットが仕事で出会う同業者のケヴィンである。
私は友人からこの話を聞くまで知らなかったのだが、このケヴィンを演じているのはハリス・ディキンソンという俳優さんで、ドランがこの映画を製作するにあたり影響を受けたという「ブルックリンの片隅で」という映画に主役で登場している。
そして、面白いのがこのケヴィンという登場人物、「ブルックリンの片隅で」にて彼が演じていた役がそのまま成長したかのような振る舞いをしているのである。
二度目の鑑賞をする前にこの作品を見たため、ケヴィンの行動に対する見解がぐっと深まり、マットを翻弄させるスパイスになっているのも面白かった。

余談ではあるが、このケヴィン節が炸裂するシーンでブリトニー・スピアーズの「Work B**ch」がかかるのだが、学生時代、おじさんが完璧にブリちゃんと化し、雑に構成されたコラ画ならぬコラムービーを見過ぎたため、イントロがかかった段階で私はそれを思い出し映画館で声を殺して笑い転げた。
そんなこんなでケヴィンがマットの整理がつかない感情をさらに掻き乱したりと、観ている方がヤキモキするようなシーンも満載である。

そして映画も後半にかけて盛り上がって来るのだが、この映画のハイライトでもある倉庫(?)のシーン…!
まぁ中での出来事もとても美しかったんですけど、そこに辿り着くまでの流れが!なんとも!素晴らしかった!
ちょっと取り乱してしまったが、「言えない」マックスの目線から発される思いを、ようやく受け取る事ができたマットがもう大正解で心の中で拍手喝采。
と、まぁここまでの流れを掴む事ができたのは個人的に3回目の鑑賞でのことだったのですが。むちゃくちゃ良いシーンであったし、それに気づくことができて本当に良かった。わたくし、成長しました…。

そして今作最大の謎であり、さまざまな解釈、考察のネタになっているのが「ラストシーンは何曜日の出来事なのか」という点。
最後にこの仕掛け…むちゃくちゃ面白い…。
最初に見た時は、その前のシーンも相まって、笑顔のマットに対してはホラーかと思ったが、なんだか本当にわからないもんですね〜。
個人的に1回目、2回目、3回目と解釈がバラバラしましたが、今 これを書きながら何となくこうじゃないかなとやっと腑に落ち始めたところです。
これ、かなり続きが気になる映画ですね、今思えば。


そんな感じで、ドラン編として2本、まとめてみました。
ドラン編、思いのほか気持ちが溢れてしまって長くなってしまった…。

ドランの映画、本当にどれも大好きで、色も音楽もファッションも良いんですよね。
ロランスも好きですが、「Mommy」も難しいけど定期的に観たくなります。
これもむちゃくちゃ良くて、もはやOasisの「Wonderwall」聴くためにMommy観るぐらいです。

あともう一つだけ言わせて欲しいのが、このMommyの息子役のアントワーヌ・オリヴィエ・ピロンなんですが、一瞬「わたしはロランス」にも出ていまして、そのシーンがむちゃくちゃ好きなんです。
そりゃもう本当、その一瞬のシーンで白飯3杯いけるぐらいです。
もしロランスを観る機会があれば探して欲しいなと思います。

ドラン監督の映画、アマプラやNetflixにも結構あるので、もし興味が湧いたら一度観てみても良いんじゃないかなぁと思っております。

長くなってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
次はノーラン編。更新はいつになるやら…。
なるべく早くまとめたいと思います。
それでは、また。

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