西表島に移住!? 異次元の遍歴 ショーケース 中村取締役インタビュー【前編】
このインタビューは、社員の皆さんに今まで知らなかったショーケース役員陣の価値観やエピソードを、インターン生が学生ならではの切り口でお届けする企画です!社員の皆さんのキャリアの判断材料となるような情報を提供することを目的に、インターン生が取締役のキャリアや価値観を深堀ります。
今回は、株式会社ショーケース 取締役の中村 浩一郎さんにインタビューを実施しました。前編と後編に分けて、異次元の遍歴を歩んでこられた中村さんの、これまでのキャリアやモットーを紐解きます!
前編では、中村さんのキャリアやターニングポイントについてお聞きしました。
インタビューの前の事前情報として西表島で農業に従事されていたと一風変わったエピソードをお聞きしており、非常にワクワクしながらインタビューに臨みました。
インタビュー
━ まずは中村さんの原点となる学生時代について教えてください
最初は経済学か何かを学ぼうと思って大手予備校に通いました。しかし通ううちに、講師に名だたる文学者がたくさんおり、英語の時間中に小説や文学や思想の凄さを学ぶととても面白いと感じ、心理学や哲学や文学に興味を持ちました。その中で、原文で読むまで理解できず、大学では学びきれないといわれた哲学と、自身では学問として理解しきれなかった心理学をあきらめ、一番自分に合うと感じた仏文に進学しました。
大学は何かの学問に熱心するもなく、あっという間に終わってしまいました。アパレルやレコード会社、下北の飲食店などでのアルバイトにほとんど時間を費やしており、自分が希望した会社には就職できませんでした。
ーその後20代はどのように過ごされたのですか
そのまま学生時代から友達が働いていた生物調査の仕事があり、建設省(現:国土交通省)の下請けとして川や山でフィールドワークをし、鳥の生態系を調査する仕事を2年ほど、契約社員のようなアルバイトをしていました。
その間にも、例えば学生時代から気に入られていた掃除屋の社長のもとで営業の業務をしたり、短期留学でフランスへ渡ったり、音楽活動をしてみたり、三軒茶屋に飲食店を開業する手伝いしたり、中国に進出した社長に付き添って半年くらい大連にいったりと30歳くらいまで正社員にならず、誰かにくっついていたり各国・各地を転々とする生活をしていました。
ーそこからどのように西表島に結び付くのですか
20代が終わるまでにさすがに何か定職につくべきだと思い、求人紙を見ていたら、「パソコンと接客が好きな人募集」という求人があり、自分がプログラムを中学校から書いていたこともあり応募することにしました。
その後採用され、メーカーのパソコン修理サポートの電話対応として千葉の東金に勤務しました。その後、約4年でコールセンターのトップになり、コールセンターの湘南移転に伴う立ち上げに参画し、200人ほどのコールセンターのマネジメントを35歳ごろまで行っていました。
また30代は釣りとキャンプの生活を並行していて、週末に釣りとキャンプに出かけていた仲間に「西表島はいいよ」と勧められました。
その後コールセンターのオーナー社長が取引先と一悶着をおこしたため、200人ほどの部下の人員整理を行った後、自らも退職しました。その時自分の中で良いきっかけだと思い、西表島への移住を決意しました。当初は西表の求人を見て、飲食店でバイトしてきた経験を活かし飲食店に勤務しようとしましたが、ことごとく門前払いされ、次にやってみたかった農業に従事することに決めました。12月に応募したのに4月から働きに来てほしいといわれ、また持ち物等について何も指示されなかったため、つなぎを買い、持っている限りの下着などを持ち不安を抱えながら移住しました。ちなみに釣りは大好きでしたが、西表島に釣りしに来ただけだと思われるのがいやだったため、釣り道具はいつでも発送してもらえるように準備してきたうえで置いてきました(笑)。
ー西表島での生活をおしえてください
西表島に到着後、プレハブの小屋に住むことになりました。着いた日の夜の歓迎会に向かうと、そこには20歳の子が3人!失業保険をもらいながらわずかな給料で1年ほど働いているうちにだんだん現地の人々と仲良くなり、自分で何かをするにはまず自分で生計を立てなければ意味がないと思い始めました。また西表島も農業がオフシーズンに入るため、島の人も沖縄の内地に戻る時期に重なっていたこともあり、一度島をはなれ生計を立て直すことにしました。
ー島をはなれた後はどうされたんですか
コールセンターのマネジメントをしていたことを踏まえたうえで、金融のコールセンターが2年の短期採用で西表島にすぐに戻れることと、金融に興味があり応募しました。しかし採用はされたものの、人間関係に悩む職場でした。その中でも自分のポジションを確立し、じぶん銀行(現:auじぶん銀行)の立ち上げに参画しました。いろいろ勉強をして、銀行に配属されてからも銀行業務の効率化を図り、カードローンの営業課題を解決したりしていたら銀行員として採用され、そして銀行の運営本部に配属され、住宅ローンの立ち上げをしていたら最終的にシステム業務系の部長になりました。ここで、西表島から帰ってきた後当初2年間だと思っていた生活に区切りがついた感じがしました。なぜなら、30歳から金融業界に入るのは遅いと言われた時代の中で、自分を信じて続けていればなんとか1つのことを成し遂げられるかなと感じたからです。「お前にはなにができるんだ」と問われ、何か一つできたかなと感じた瞬間でした。
ーその後なぜショーケースに転職されたのですか
じぶん銀行在職時に、ショーケースのクライアントとして、カードローンのフォームアシストを使用しました。ショーケースのコンサルティング営業は最初あまり褒められたものではありませんでしたが、その営業を立て直してくれたのが氣田さんという方でして意気投合しました。その後ショーケースに技術開発を依頼してレスポンスしてもらうという関係が続く中で、犯罪収益移転防止法の改正があったときにショーケースのシステムの改良の相談をしていたら、永田社長と話す流れになり、一緒にやろうということとなりショーケースに転職しました。
前編の振り返り
中村さんがショーケースにいらっしゃるまで、誰もまねできないような非常に豊富な人生経験を積まれてきたことを改めて実感しました。西表島に移住するきっかけとなったターニングポイントも、偶然が重なりながらも、自身の境遇をチャンスだと捉えて自ら掴み取ってこそのものではないかと感心しました。
定職につかない、キャリアを自分自身の思うままに選択する人生を歩まれてきた中村さんにとって、自分を信じて続けていればなんとか1つのことを成し遂げられるかなと感じたこと、「お前にはなにができるんだ」と問われ、何か一つできたかなと感じたことは非常に大きな体験であり、そして人生の糧であったのではないかと思います。
後編では、さらに今までの人生を通してのキャリア観やモットーを深堀ります。また中村さん自身の、「自分には何ができるんだ」と疑心暗鬼になって結果を出すことに熱心になっていたという後悔についても詳しくお聞きします。
後編はこちらから!