紀元二千六百年祝典記念章について調べた話
はじめに
本記事では紀元二千六百年祝典記念章について詳細に解説を行います。本記念章に関する記事はインターネット上にはほとんど無いわけで。需要が無いからね
記念章とは
よく勘違いされやすいのだが、記念章は勲章とは別個のもの。
日本国政府が行う表彰にはいくつか種類があるが、記念章は勲章・褒章以外のものを指す事が多いのである。(従軍記章を除く)
記念章は1929年(昭和4年)の売勲事件以降は造幣局がその製造を担っている。
しかし、1942年の支那事変記念章を最後に、現在に至るまで記念章は制定されていない。
紀元二千六百年記念式典
1940年11月10日に「紀元二千六百年記念式典」が開催された。参加者は55,000人。神武天皇即位から2600年を記念した記念事業のうちの一つ。
紀元2600年=皇紀2600年=昭和15年=1940年。当時は盛大に祝われたらしい。
紀元二千六百年祝典記念章
さて、本題の紀元二千六百年祝典記念章だが、この記念章はこれらの祝典を記念して設けられたものである。
制定法令は昭和十五年勅令第四百八十八号 紀元二千六百年祝典記念章令。(本記事では以下「章令」とする)
主な時系列
1940年2月11日
昭和十五年紀元節祭
1940年7月27日
勅令(紀元二千六百年祝典記念章令)公布
1940年8月23日
記念章第一枚目完成(造幣局柴田製造部長の手による)
1940年11月初旬
記念式典参列者のうち、三千名余りに賞勲局より記念章伝達
※彼らは式典での佩用が許された
1940年11月10日
紀元二千六百年記念式典(昭和天皇皇后は記念章を佩用して参加)
残りの参列者に式場で記念章を伝達。
1940年11月11日
紀元二千六百年奉祝会
式場伝達組(「残りの参列者」)はこの日から佩用を許される
1941年3月5日
拝受資格者届出〆切(東京府のみ?)
1943年3月1日
満州国皇帝・帝后に記念章贈進(梅津特命全権大使による)
デザイン
現代語訳
表面には菊御紋、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)、裏面には中央に紀元二千六百年の文字、下部に昭和十五年の文字を入れる。
とあり、皇道精神を重視したデザインとなっている。
綬の部分は、「空色に八条の紅線」を配している。これは八紘一宇を表現している。八条が八紘、空色が一宇を表現している様である。(造幣局七十年史より)
また、環部分(綬とメダル部分の繋ぎ目)は勾玉を模している。これは我国固有の装身具によって悠遠な歴史を現している、とのこと。(造幣局七十年史より)
なお、刻印部分などは造幣局が行ったが、組立仕上げは民間業者が行なっている。
原型製作は畑正吉。東京高等工芸学校(現:千葉大学工学部)教授であり、文化勲章の意匠を手がけたことでも知られる。
また、大礼記念章(1928)・帝都復興記念章(1930)等の記念章のデザインも行なっている。
当時の評価として、
とあり、絶賛されている。
材質
章・環部分はアルミニウム青銅、綬部分は布製。
アルミニウム青銅とは、アルミと銅の合金である。金属含有比率についてであるが、銅950 アルミニウム50である。
根拠として、造幣局七十年史に以下の記述がある。
当時、十銭・五銭貨は、アルミニウム青銅によって作られていたことから、当該貨幣と祝典記念章の材質は全く同じである事は間違いない。
当該貨幣の品位は銅950 アルミニウム50であることから、祝典記念章に関しても同様であると言える。
授与対象者
授与対象者は上記の通り定められている。
主な受章者として、近衛文麿(内閣総理大臣)らがいる。
製作数
総製作数は約20万2千個で、うち女性用は1,600個余であった。
しかし、記念章を授与される資格のある対象者の人数はこれをはるかに上回っていた様である。
なんと120万人の有資格者がいたのである。
結果として、有資格者の2割弱のみしか申請をしていないと思われるが、理由は不明である。
現在の相場
ヤフオク・メルカリ等で出品されており、容易に購入が可能である。
製作数が多いこともあり、常に複数個が出品されている状態である。
以下に大まかな相場感を示す。
男性用:1,000円〜
記念章の證(勲記の様なもの)付き:2,000円〜
女性用:5,000円〜
※当然ながら、購入しても公共の場で佩用することはできない。
紀元二千六百年ゆっくり解説動画
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