通学途中のラクウェル・ウェルチ
僕の中学生活は、二つある。
一つは、北国の小さな港町で過ごした前半の二年間。
もう一つは、転校して、県庁所在地に近い地方都市で過ごした後半の一年間。
前半の中学生活は、ごく普通の、クラスに友達もいる、平均的な思春期の少年として過ごした。
しかし、後半の、転校してからの中学生活は、真綿で首を閉められるような息苦しくつらい毎日だった。
僕は、クラスの中で無視され、存在していないかのような扱いを受けた。
暴力を受けたわけでもなく、靴やカバンを隠されたわけでもなかったが、無視と言うのは、誰に怒りを向けることも出来ず、心は鬱屈し、消耗して行った。
原因は、未だ、よく分からないが、今で言う「陰キャ」だったからだろうか。
イジメられるのであれば、反発し、鬱憤を晴らすことも出来るが、無視だとそうも行かない。
太っていて運動は全く駄目だったが、勉強だけは出来たので、何か、不気味なオーラのようなものを発していたかも知れない。
おとなしそうに見えて、キレたら手がつけられない。
事実、不登校気味で、家庭内暴力も激しく、親に、精神科に無理やり連れて行かれたりして、僕の心の中には、危険なマグマが煮えたぎっていた。
言ってみれば、僕は学校という「監獄」に閉じ込められて、脱出の機会をうかがっていた少年だった。
何だか、純文学の匂いがする文章になってしまった。
「おい、いったい、エロはどこにあるんだ?」そんなスケベ紳士たちの声が聞こえて来そうなので、話の調子はガラリと変わる。
僕の家から、中学までは、徒歩二十分くらい。
十五歳の少年なのだから、たとえ重いカバンを持ってでも、学校へと続く坂道を上がって行くのは容易いことと思われるだろう。
しかし、監獄のような学校に行くのである。
足取りは砂地を歩くかのように地面に一歩一歩めり込むようで、学校に近づくに連れて、心臓もまた、動悸を打ち始める。
しかし、心臓の動悸には、もう一つ別の理由があった。
中学に着く直前の道の脇に、彼女が待っていたからだ。
彼女の名は、ラクウェル・ウェルチ。
道路脇の立て看板に、映画のポスターが貼られていて、その中に、彼女は立っていた。
胸と腰の部分にだけ、毛皮で作られたビキニを身に着け、砂と岩の大地の上に、彼女は凛々しい顔つきで立っていたのだ。
「恐竜100万年」
ポスターには、映画のタイトルが、そう書かれていた。
当時、女性の水着は、ワンピースがほとんどで、上下に別れていても、セパレーツと言われる、おヘソがかろうじて見える程度のおとなしいものだった。
それが、ビキニ!
ビキニ、である!
なんとエロい響きだろう!
その言葉だけで、胸が、そして、股間が熱くなった。
太平洋のビキニ環礁で米国が核実験、日本の漁船が被害に。
不謹慎にも、そんなニュースを聴いてさえ、勃起した。
まあ、核爆発の迫力から、水着のビキニと言う言葉が生まれたのだから、当然とも言えるのだが。
ポスターの彼女を、立ったまま、いや、勃ったまま、じっと眺めているわけにも行かず、その姿を目に焼き付けて、僕は学校に入って行った。
それで、つらい学校での一日を乗り切ったのだ。
それから、数十年の時が経ち、僕は、彼女と再会した。
映画「ショーシャンクの空に」の中で。
無実の罪で服役している主人公の独房の壁に貼られたポスターの中、女優ラクウェル・ウェルチは、あの日のように立っていた。それも、かつて僕が見たのと同じポスターの中で。
映画「ショーシャンクの空に」は、スティーヴン・キング原作の「刑務所のリタ・ヘイワース」を映画化した作品だ。
リタ・ヘイワース、マリリン・モンロー、そして、ラクウェル・ウェルチと、それぞれの時代を代表するセックスシンボル女優のポスターが、主人公の生命を繋いで行く。
その理由については、ネタバレになるから書かない。
主人公をポスターの中から支え、励ました、ラクウェル・ウェルチは、遥か昔に、学校、いや、監獄に居場所のない僕をも支えてくれたのだった。
そのエロさで。
学校から帰り、彼女を思い浮かべて始めるオナニーの気持ちよさで。
余談だが、最近になって、映画「恐竜100万年」をテレビで観た。
特撮の努力は感じられたが、やはり、「ショーシャンクの空に」とは比べ物にならないほど、つまらなかった。
動く、ビキニ姿のラクウェル・ウェルチにも、中学生の僕が胸をときめかした、あのエロを感じられなかった。
それが、時の流れとチンチンの衰弱、いや、成熟というものなのだろう。
更に余談になるが、女優ラクウェル・ウェルチは、今年2023年の2月に亡くなった。
享年82歳。