修復的正義の修復される元になる“正義“はこれか!
む〜に〜での読書会はトーキング・サークルというやり方で行なっています。
トーキングパーツ(うちでは大体玉村町マスコットのたまたんのぬいぐるみ)を持っている人がしゃべる人。以外の人は聞くに徹する。
そういった「聞く」と「話す」を分ける対話形式で読書会をしている
実施マニュアルには“修復的対話”とあり英語では
「Restorative Justice Dialogue」
修復的 正義 対話
となるらしい
ここが分からなかった
修復?正義?
対話って穏やかなものだと感じていたから、そこに“正義”という、捉え方によっては危ういものが入ってくる。そう感じていることで私はまだこの対話の方式をよく理解できていないのだと感じていた。
そんなある日
「せっかくおばあちゃんがつくってくれたんだから食べるんだよ」(by my son)
誰かがやってくれたことに報いる行為をすることが彼の中の正義なんだと思った。
状況として、彼がその言葉を発した時にその場におばあちゃんはいなかった
=おばあちゃんにいいように思われようとして放った言葉ではない
母である私と彼とは決して威圧的な関係性ではない
以上のことを踏まえて考えると
「せっかくおばあちゃんがつくってくれたんだから食べるんだよ」
という気持ちは自然と彼の中から出てきたものである
これが彼の中で“正しい行為”であり
その正しい行為こそが彼の中の“正義“なんだと感じた自分がいた
さて「修復的対話」という言葉に戻ろう
Restorative Justice Dialogue
修復的 正義 対話
幼い頃に獲得した純粋な正義
大きくなるにつれいろんな関係性にもまれ
いろんなことを知る
良いことも悪いことも知っていく
嬉しい体験も悲しい体験も辛い体験も身に降りかかっていく中
純粋な正義心にいろいろなベールがかぶさっていく
経験が増えれば増えるほど物事をどのように捉えるかが
純粋な気持ちだけではまかり通らないようになってくる
そんなたくさんのベールをまといながら
対話によって自分の中にある純粋なる正義心を取り戻していく
それはまさに幼き日に戻っていくように
それでいいんだよ
あなたはあなたが感じる正義心を持っていていいんだよ
肯定的で暖かい場の空気が、
内側にある正義心に触れに行くことを可能にしていく
と同時に
自分の中の“正義の心”というのは、たとえ自分がどんなになってしまったとしても決して無くなることはないんだ
心のずっと奥の方にひっそりと隠れているだけなんだ
これはいわゆる性善説なのかな?
もしこの修復的対話における効果が誰にも起こりうるならば、それは性善説の立証となりうるのではないかい!?
なーんてことを考えたりしました✨
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