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(人は一人で生きてゆけるか?)と考えてみた。
他者との関係性があるから「私」を認識できる。
では、完全なる孤独の中にいて、「私が私である」ことの証明は、この「意識」と触ることのできる「肉体」しかない。
「人は一人では生きていけない」
とはよく聞く言葉だ。
確かにその通りだ。
その通りすぎて、かえって「本当に一人では生きていけないのか試したく」なる。
いま現在、私は定職に就いていないため、明らかに「他者」との触れ合いが少ない。
しかし、これではまだダメだ。
「真に」一人で生きてゆくには、今流行りの「ソロキャンプ」ではないが、山奥にでも籠もって隠遁生活を営まねば「私は一人で生きている」と胸を張って言えまい。
世俗を脱するのだ。
なんのために?って、「本当に人は一人では生きていけないのか」それを証明するためだけに、だ。
だが、ここで一つ問題がおこる。
私にはそんな山奥で籠って生活するだけの「覚悟」がない(しかも、今、冬で寒いし!)。
この世の凡ゆる事業は「行動」によって起こる。
山を踏破するのも、自動車や飛行機の開発も、この世の全ての「偉業」は行動によって起こる。
そしてその行動を起こす源泉は「気」だ。
「やる気」「負けん気」「覇気」こういった言葉から連想されるように、なぜ人が「行動」を起こそうと脳が電流を送るのかのメカニズムは、少なくとも俺には分からない。
しかし、少なくとも(やろう)と思うからやるのであって、朝、目覚めたらいつの間にか、山の山頂にいたなんてことはないわけだ。
孤独について考えるに、山奥に籠もって、徹底的に「他」を遮断し、食べ物も住む場所も自給自足で補えば「本当に一人で生きている」ことになると思う。
だが、そんな生活は長くは(たぶん)続かないだろう。
家に引きこもっていたって「一人なようで、実は一人ではない」。
そいつの住んでいる家は誰が建てた。
人である。
その家は誰が買った。
そいつの親、若しくは近親者かもしれない。やはり人だ。
そいつがやっているゲームは誰が作った。
これも人だ。犬や猫がゲーム開発してたまるか!
食べている食事も、着ている服も、読んでいる雑誌も、すべては「人が手間暇かけて作り出した、人が成せる技」だ。
やはり、人が一人で生きてゆくのは、並大抵なことではないようだ。
だから、なるべく人と仲良く寄り添って生きていきたいんだけど、なんで他人ってあんなに「ムカつく」のかなぁ…。
本当、不思議です。
だから、私はいつだって「中途半端にウダウダ孤独を満喫している」のです。
まとめると、
「人は一人でも生きてゆけるけれど、それには尋常ではない覚悟がいる。俺みたいな人間には、それは難しい」
という結論に至った。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
了