生い立ちと軽度発達障害による苦痛と苦しみ
俺は生まれた時からどうやら普通ではなかったらしい。まあひと目見ただけではわからんのだが、おかしな点で言えば首が1ヶ月で座ったことくらいだと思う。俺が知らんだけで実はもっとこうだったとかもあるだろうけど、生まれてすぐから物心を持つまではそんな感じだった。
物心がつく頃といえば大体5歳頃だと思う。この頃の記憶を辿ると便が真っ白だったことを思い出す。小さいながらなぜこんな真っ白なのか不思議に思ったのだが、理解できるはずもなく聞くこともせず今に至る。勘のいい人やそういう子育てをしたことがある人ならわかると思うけど、異常な偏食で牛乳以外は一切口にしなかったのだ。話を聞けば1日牛乳1L〜2Lは飲んでたらしい。確かに保育園では牛乳しか飲まなかったし、保育園の場所が変わってもカレーに乗ってるグリーンピースを口に含むことすら拒んでたような覚えがある。思えばこの頃から周りと比べて少しおかしいわけだ。なんで牛乳しか飲まないんだってね。
小学校入学。この頃にはすでに自閉症の傾向が出ていたらしく、特別支援学級で学ぶことになった。私生活でも自閉はしっかり出ていて、公園に遊びに行くときは必ず人のいない公園を選んでいたみたいだ。もうすでに自閉症バリバリ全開だったのだがもちろん例に漏れず電車の車輪ばかり見てたし、思えば自転車に乗るときもタイヤばかり見てたような気がする。学校の給食をしっかり残さず食べてたのを考えると偏食は少しはマシになったのだろう。小学校の3年くらいまでは少しは楽しかったんじゃないかと思う。ここまではね。
小学校3年あたりにでかい発作を起こした。全身力が抜けて歩けなくなった。もっとも教室に戻るほどの体力はあったから自力で保健室に行ったのも覚えてる。その頃から俺の人間不信も始まり出したと思う。学校に行く途中に保護者が集まって喋ってることがあるじゃん?あれが信じられないほど怖い。もうそこを通りたくない。めちゃくちゃ嫌だった。そうなってからはずっと遅刻ばかりし始めた。親はそれを無理やり行かせたりせず全然普通に遊ばせてくれてたし、当時水泳と柔道を習ってて人間関係がゼロにならんようそこだけは行かせてくれた。学校は死ぬほど嫌なのに柔道と水泳は全然怖くない。俺の居場所だった。
小学校は卒業するまでずっとそんな生活だった。嫌で嫌で行きたくない、でも水泳と柔道は通う。そんな生活をずっと続けていた。6年生になった頃には教室の日向でずっと体育座りしていた。人となんか遊びたくもないし、絡まれると倉庫に逃げて鍵を掛けてた。この気持ちは今でもずっと消えないしあまり薄くなってもいない。できるものならずっと1人でウジウジと生活したい。
中学も特別支援学級に進学、今までの不登校感が全て嘘のように消え去った。普通に生活してた。何をしても楽しかったのは多分自分ができるレベルと周りのレベルが同じだったからなんだろう。大体同じようなネタで笑えたりしたから今までとは打って変わってめちゃめちゃに楽しかった。
それが1年経つと一気にレベルの高かった人たちが卒業してしまい、新入生はなかなかに騒がしい子ばかりだった。それが2年の頃だけならまだしも3年になるともっと騒がしくなってしまった。俺の居場所はもうない、そう思うほどだった。その間に通常のクラスと共に学ぶ機会もあった。それが1つのキーとなり、高校卒業資格を得るために進学することを決めた。
さっきからレベルと言っているが単にものの価値観が合うとか見るものの質とかそういうわけじゃなく、わかりやすくいえば精神年齢や実力に近いものだ。レベルが高いと落ち着いていてそれなりに普通の考え方や羞恥心なども備わっているいわゆるちょっと変わった子くらいなイメージ。反対にレベルが低いとどうなるかというと、一言で言えばかなり子供っぽくなる。ちょっとしたことで大騒ぎするし、言動や考え方、見るものなども割と子供っぽいのだ。
本人にとっては普通なのだが周りと比べればかなり小学生に近い。場を弁えないなど少し難がある場合もあるが、それはかなり個人差がある。迷惑ばかりかけるという偏見は実は当てにならなかったりするのはそのためだ。ただ、レベルの高さに関わらずどちらも真面目で純粋ということがあるので、一概に全て悪いとか気持ち悪いとか思わないでほしい。俺たちも一生懸命生きてるんだ。そこはわかってくれ。
高校に進学するとまたもや打って変わってまたまた楽しくなった。多少勉強で苦労することもあったが、それなりの成績を保つことができた。人生は大きく変わるものだ、今思えば人生で1番楽しい時間であった。
自閉に関しては、それなりに改善はされたようだ。と言うのも、やはり人付き合いは経験の数だけものを言うらしく適当にあしらう術を身につけてからはめんどくさいやつとの関わりを結構適当に流せるようになった。これが高校生活で得た1番大きなものだと思う。
この頃にあった友人に歌い手の沼に引き摺り込まれた。それ以来ずっとその沼から抜け出せていない。なんてことをしやがったんだお前のせいで金がかかってしょうがねえ、と言いながら実はこの沼で出会った仲間たちにかなり人付き合いを鍛えられた。かなり改善されて、突然のフリに対しても答えることができるようになった。沼に引き摺り込んだ友人ありがとうな。今立派なクソ廃ヲタクしてるよ。
卒業までに時間はあったが、今でもずっと付き合いのある友人もできた。4人いるが、時々食事をしたり遊んだりイベントへ行ったりなどこれからもずっと付き合いが続くのだろう。これからも焼き肉食ってコミケやライブ行こうな。
入学当初は脱臼した経験から柔道整復師の道を考えていたが、なにがあったか大学へ進学することが決まった。しかもあっさりと合格してしまった。もちろん名のある大学ではないが、大学は大学だ。小学校の不登校が嘘のように見えるほど大きく成長した。
大学に入学してから学校の支援センターの人に「注意欠陥とか学習障害って言われたことない?」と言われた。身に覚えはないが、どうやら傾向があるらしい。と言うことで母に聞いてみたら、あった。なんで?自閉に注意欠陥に学習障害ってもう発達障害コンプリートしてんじゃん。おまけにコミュニケーション障害まであったらしい。なんだこれ持ってる障害だけでも多すぎるぞ。
在学中あれこれと大変なこともあったが、大学ではなんとか卒論まで書いて卒業することができた。勉強してもなかなか覚えられない割に簿記3級も取れたし充実した4年間だったと思う。ストレートに就職できなかったのが心残りだが、ヲタク活動もしっかりして仲間も増えたし、何より人付き合いの質も方法も鍛え上げられた。本当に良い4年間だった。
卒業後は就労移行支援事業所に入り、就職先を探すことになった。あまりにも障害が多い上に軽すぎて入れる場所が少ない問題も出てきた。身体障害は対人関係などに問題もなく仕事量もほぼ健常者と同じレベルでこなせるのでかなりの確率で就職できるらしいのだが、俺は精神として扱われる。精神はなかなか受け手がおらず、就職するまでにかなり時間がかかることがわかった。悲しい話ではあるが時間をかけて探すしかない。
おまけに障害が軽いとなると、特例子会社という障害者が主に働く会社に入ることも難しい。だからと言って通常の会社に就職すれば簡単に潰れてしまう。さらにさらに障害者雇用もなかなか取っていないとなるともはや就職先はないのである。職人くらいにしかなれないのに就職先を探す拷問のような感じだ。
そうこうしているうちに祖母が亡くなった。肺がんが大学卒業間近でかなり進行していた。存命中に卒業アルバムを見せたいと思っていたのだがなかなか届かない、と思ったらなんとか届き最後のばあちゃん孝行ができた。俺の後悔は1つもなく、最期の瞬間までずっとそばにいてあげることができた。その少し後に特例子会社に実習を受けることが決まった。しかも採用。ばあちゃんが採用してくれたんじゃないかと思う。今もずっと見ていてくれている気がする。というのも時々、自分の近くに誰もいないにも関わらず人がいる感覚がある。しっかり孫を見ていてくれてるらしい。元気にやってるよ。
就職したあとはずっと順調である。特例子会社はしっかり障害者を支えてくれるサポーターの上司がいるので、今でもくたばりそうな自分を支えてもらっている。我ながらいい職場に出会えたと思えた。まあなかなか思うようなことが出来ず悩むし精神も折れまくるがしっかり支えてもらえている、感謝してます。
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ここまで実際に送ってきた道を書いたわけだが、正直25年生きて1番楽しかった時間なんて7年くらいしかない。高校大学の7年間だ。人生を送る上で人のペースに合わせることがあるのは仕方がないのだが、俺の場合は合わせすぎるらしい。しかも人間合わせてばかりだとダメらしい。誰かに合わせてもらうことも長い人生の中では大きく重要になるんじゃないかと思う。
小学校では宿泊学習というのがあった。泊まりがけで遊びに行く遠足みたいなものだが、そこではいくつかの班に分かれて行動することがある。その時、俺は結構な確率で班長をやることになった。当時はやりたかったことであったし、なかなか楽しかったのも間違いではない。しかし自覚はあまりしていないのだが、俺は人を楽しませることが好きならしくレクリエーション係もやりたかった
小学校ではなんだかんだでそれなりに上手くやっていたのだが、中学生になるとそうはいかなかった。同じように宿泊学習があったのだが、上級生は人をまとめなければならないので班長を基本的にはやりましょうという俺には押しつけに聞こえるものがあった。人を楽しませるのがやりたいけど、それはやることができなかった。悲しい。レクリエーション係をやった時は怒られた。やりたいことをやろうと言いながらやりたいことを選ぶと怒られた。周りよりできたが為に、俺はやりたいことを我慢しなければならなかった。人生で1回しかないことを捨てなければならない苦痛を15歳で味わった。
大人になった今では歯医者で全身麻酔で抜歯したかったが、それも出来なかった。障害が重くなければ全身麻酔はできないが、あまりにも受け答えがしっかりしている上に障害があるように見えなかったことが仇となったらしい。事情をしっかり説明したら静脈麻酔という何をやったかはわかるが理解ができない状態にする方法で抜歯することになった。これまた中途半端な軽さの障害だったがためのことである。軽すぎると死ぬより怖いことを我慢するか完全に痛い思いをする以外に道はない。怖いことを避けられないのかよ。何をどうしたらいいんだってよ。
自閉傾向があればなお辛いこともある。小学校の不登校の原因のようなものである近所のおばちゃんだ。別に何をしてるわけでもないのだが、挨拶されるのが本当に嫌なのだ。俺にとって挨拶とは人との関わりの一部で、そもそも関わりはそばにいたり声が聞こえるだけでも関わりだと感じている。今の環境はすれ違ったり見えたりするだけで挨拶されるので、アホみたいに精神的なダメージとしてブッ刺さる。常に体の一部にショットガンを打ち込まれてる気分なのだが、周りの感覚としてはマッサージ機を当ててるようなもの。受け取る方向が違うだけだがまったくもって噛み合わない。
また、自閉傾向が強くなればなるほどこだわりと1人の時に発揮できる力も強くなる。言ってしまえば職人気質になるわけだ。とは言ってもある程度の成長をするとそれなりに構って欲しくなるのはどんな人でも同じらしい。俺の周りの自閉傾向のある人たちも同じように構って欲しい感じがあった。しかしこだわりは強い。そういう人にはしっかりと1人で集中できる場所を提供してあげると成績や実力は周りとは比較にならないほど成長すると思う。俺は1人でやりたいし誰かに見られながらやるのはちょっと辛い。でもツイキャスのような生放送は嫌いじゃないな。そんな感じでその人に合った環境を提供できる社会になってくれると俺としても生活しやすいのが本音だ。だが世の中はそんなことができるようにはなっていないので、結局は力を発揮しないで我慢するしかない。
色々と我慢をしている、苦痛を受け止めているようなことばかり書いているが、やはり1番きついのは誰かに支えられたいと思う気持ちもあるけどそれをはっきりと的確に支えてくれる人が少ないということだと思う。家族や友人はわかってくれることが多いのだが、その枠から一歩外に出ればなかなか理解し難い様子を感じてしまう。もちろん親身になってくれる人もいるし、それは理解しているつもりだがやはりきついものはきついのだ。支えてくれないでいいからそばにいて話を聞いてくれ、最近はそんなことばかり思うようになったのも少しは成長した証拠だと思い今日もなんとなく時間を流している。
落とし所も無いので終わりにしようと思う。あなたの近くにも実は発掘されていないだけで俺と同じような人がいるのかもしれない。しかもそれがわかったところで何もできない。周りも、本人も。でも周りにできることは必ずある。その人と親しい中であればそばにいるだけでその人の支えになっている。いつも通りに振る舞って仲良くやってあげてくれ。支えてあげられるのは親しく仲良くしてくれる仲間と家族だけだ、どうかそばで支えてあげてくれ