スポーツに勝利至上主義は不要か
今まで10年以上柔道を続けてきて、かなり自分自身を強くできたと思う。それもこれも実践の場という試合を何度もこなしてきたことが1番影響があると思っている。だから俺にとって試合はすごい楽しいものだ。
それは昔の話かと思うが、そうでもない。実は今ほとんど柔道をやっていない状況だが、いつか復帰した時はなるべく多くの試合に出たいと考えている。昔ほどの情熱はないにしても、やりたいという気持ちは今も萎え果ててるわけではない。
そうなると、試合に出る以上勝たないといけない。恥を晒すような負け方もできないし、若輩に負けるのもダメだ。柔道は昔から続く古武道が進化した姿だから、やはり年功序列というか、歳上や段位が上の人は負けてはならないというようなものがある。
負けてはならない、汚い勝ち方をしない。ずっと昔から言われ続けてきた言葉。それは昔も今も変わらず心の奥底に根付いている。勝って当然というわけではないけど、試合をする以上は必ず勝つことを考える。相手が強かろうと弱かろうと、段位に相応しい試合をするのが武道だと思う。
しかし最近の流れとして、柔道はスポーツであるという考えに変わってきたように感じる。勝って驕らず負けて腐らず、どんな時も感情を表に出さず凛とするのが武道なのに段々とサッカーのように感情を出すようになってきた気がする。
そして、体罰。行き過ぎた体罰は流石の俺もダメだと思うが、自分をより強くするのに鼓舞する言葉や行為を全部ひっくるめて体罰と言われたらたまったもんじゃない。最近は体罰の範囲が異様に広い感じがするのは「スポーツは楽しむもので勝つためにやるものじゃない」という考えが多数になったからだと思っている。
武道にしろスポーツにしろ、始めた以上は勝ちたいと思うことは当然だと思うし、我が子の勝つ姿を見たい、嬉しい思いをさせたいがために一生懸命になる親も沢山いる。考えが沢山ある以上、全てを同じ考えで進めることはありえないと思っている。
でも、現実は「楽しむ」が第一になった。勝つことはもう時代遅れのように言われてしまう。あれだけ力を注いで来たものをやりすぎだとか可哀そうだとか、他人の感情で決められてしまう。周りは健康で怪我もなくて嬉しいかもしれないが、本人の意思はどこにあるのだろう、そんなことをたまに考えたりすることがある。
最近では小学生の全国大会が開催されないだとかの話も聞くようになった。試合は自分の力、技、強さを確かめるために行われるもので、その中でも強かったものはより強い相手と戦い成績を残す。そういうものなのに、なぜ外野が色々言わなければならんのだ、と思うところがある。
もちろん本人以外の理由で指導の行き過ぎや体に無理をさせて怪我するのは論外だが、勝ちたい気持ちがあるのだから試合を廃止するのはどうかと思う。試合を見ることが楽しい人もいるし、優勝した人はもしかしたら将来のオリンピック選手になるかもしれない。ジムやチーム、道場を持つかもしれないしトレーナー、監督など成績を残したことで色々な将来が見えるはず。
試合がなくなればそれら全てが消えてしまう。「全国大会出場」は「地区大会優勝」よりも圧倒的にわかりやすい肩書きだと思う。何も知らない人は「全国」という単語ですごいと思うものだから。
色々語ってきたが、もちろん当事者が解決するべきこともあるし、第三者が入らなければ解決しない問題もある。これだけ喋ると「こいつ根性論しか考えられないジジイなんじゃね」って思われるだろうが、どんな考え方を使うかは他人が決めるものじゃないし、自由に思えば良い。
一番言いたいことは「危険=廃止」という考え方をやめてほしい、打ち込むことにはとことん打ち込んでほしいということ。試合とか打ち込む場所が無くなれば人生のチャンスや学びの機会を全て持っていってしまう。あれこれ沢山考えて、沢山やってきて、それらがいろいろなことを教えてくれる。
いろいろな文化やスポーツ、それ以外のものにも当てはまるが途中でやめず、最後まで続けて欲しい。結果がわかるものなら選ぶべきだが、わからないものの方が圧倒的に多いし、やらないという選択肢はチャンスを逃がす選択になることがあるということを知ってほしい。
ちなみに俺は根性論が好き。というより「稽古に全力を出し尽くす、余力を残さない、そして休むべき時にはしっかり休んで次の稽古を充実させる」のが根性論の核だと考えている。無理をするのが根性論と思われてるがちょっと違うんじゃないかと。世の中に後者が広がっていると思っているのでちょっと悲しい。