生きることは、誰かの喪を纏うこと
はじめて「パラレルライン」という小説を先日投稿させてもらった。
そのあと直ぐに大阪で大きな地震が起こった。パラレルラインは7年前の東北地震を思い返しながら数年前に書き上げた小説だが、なんとも言えない複雑な気分になったのは確かだ。
今回タイトルにした「生きることは、誰かの喪を纏うこと」このように感じるきっかけになったのは、東北地震のあとだ。
人生の中で出会ったたくさんの人、それは記憶の奥深くから呼び起こさなければ思い出せないような人だっているはずだ。
例えば、小学生のときに転校したあの子だったり、学校を卒業して一度も会っていないあの子だったり、前職で違う部署にいたあの子であったり、合コンで一度だけ寝たあの子であったり、名前も思い出せないあの子であったり、もうたぶん一生会うことのないあの子であったり。
自分の中にある記憶の住人でさえ、人生で関わった誰かであることは確かだ。
作中で、「君の世界と重なり合った世界」という表現をした。それが僕が考える誰かの喪を纏うということだ。人はいつか死ぬ。それは必然的なことだ。でもそのいつかはいつなのかわからない。だからおもいださなければならない。
いま貴重なお時間を使って僕のいびつな文章を読んでくださっている方々。
自分の中の忘れていた記憶を思い起こしてみてください。その人はあなたの人生の中で、少ない時間かもしれないけれど、確かに重なり合った世界を共有した人です。
生きることは、深く関わった人はもちろん記憶の片隅にいる人の喪を纏うこと。
久しぶりに疎遠になっている友達と連絡を取るのもいいかもしれません。
だって、こんなときにしか思い出せない人もいるはずだから。
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