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パラレルライン「8」

「麦わら帽子なんて久しぶりに見たよ」
「これがいいのよ。後頭部までしっかり守れるでしょ?」
「そうだけど、きみの服装には合ってないよね」

 岩瀬は似合わない麦わら帽子と、服装はいつもと同じTシャツ、ジーパンにスニーカー、それと今日は見たことのない黒キャンバスのリュックサックだ。
「何を話してたの?」
「なんでもないよ。ただの世間話しだよ」
 彼女は疑うような目つきでぼくを見たが、それに気付かない振りをしていたら、諦めたのかリュックサックの中から年代物のカメラを取り出した。
「はい。このカメラを使ってね」
 そう言って手渡されたカメラは、いまでは滅多に見る機会のないフィルムのカメラだった。
「フィルムなの? なんか懐かしいな」
 ぼくは見入るように言った。
「フィルムのカメラなんて中学校の修学旅行のとき以来だよ。使い捨てカメラだったけどね」
「わたしのお気に入りだから壊さないでね」
 
 そう言って彼女はリュックサックの中からもう一つカメラを取り出して「わたしはこれで」と言ってデジタルカメラを見せた。ぼくは「きみがこっちを使いなよ」と言ったが「今日は良い写真を撮ってもらわないといけないから」とフィルムカメラを押し付けられた。
「それでは出発しましょうか?」
 彼女は小さな子どもが弾んでどこか知らない土地を冒険するかのように言う。
「よし行こうか」
 ぼくは暑さに負けながらも彼女のあとを追った。
 
 電線の冒険は思った以上に過酷だった。八月の午後三時、炎天下の中、常に上を向いていなければならない「ここを撮って」「こっちから撮って」と何かと注文が多く、その度ぼくが意とする角度は否定されて指示通りに従ったが、非日常的なこの瞬間に満足した。
 
 レンズ越しの景色は思ったよりずっときれいな世界をしていて、そのレンズをたまに岩瀬に向けると、彼女は嫌がって手で塞いだ。
 彼女の指定する場所はだいたい同じ角度からだった。基本的には電柱を中心にして、空をバックにそこから電線が伸びている写真を撮った。真下からと少し離れて斜めからだ。
 
 観察してみると電線には様々な種類があった。細い線や太い線、伸びている線はほとんどが黒い線だが、電柱の変圧器からは赤や白の線も出ていた。背の高さや形も同じものはほとんどなく、碍子と腕金が二つずつ取り付けられているタイプや上部が鳥居型になっているタイプ、商店街の上を通る柱は四角だったり、変圧器が付いていたりなかったりと、電柱にも個性があった。岩瀬が碍子、碍子言うので、どの部分なんだと聞くと、電柱についているあのバネのような形をしたところよ。と教えてくれた。
 
 とりわけ興味を引いたのは上部に白いキャップを冠った電柱だった。なんだか、丸坊主の小学生がプールの時間につけている、あの白い帽子みたいで面白かった。
 彼女が言うには電柱にも性別があるという。変圧器が二つの電柱が男性で、一つが女性らしいのだが、理由はただ力強さらしい。たまに三つや四つ付いている電柱もあるそうなのだが、それは性別を超えたものという。ぼくは妙に納得して彼女の話しを聞いていると「冗談よ」と笑った。
「電柱は交差点の役割をしてるのよ」
 彼女はレンズ越しに話しかけた。ぼくは後ろで、彼女のカメラの角度を見ながら聞いた。
「見てよ」
 そう言って複雑に分岐した電柱を指差した。
「たくさんの高圧線が一本に集まってる。ここまで多いのは珍しいわね」
 彼女は少し興奮して満面の笑顔で言う。
「十字のスペンサーがあるから、腕金には碍子がないでしょ? そのまま線の通り道になってるの。高速道路のジャンクションの役割ね。普通は碍子が付いているから、信号機付きの交差点って思えばいいの」
「なるほどね。つまりあの中には交通標識があるわけだ」
「そうね。大事な行き先を間違えないようにね」
 
 ぼくはそのまま交差点を見上げた。道端に立ったそれは、ただの風景でしかない。近所の犬がマーキングしたり、酔っぱらいのサラリーマンがぶつかったり、そんなことを想像しながらも、八月の灼ける空に負けることなく自然とその場所にあって、たまに風に吹かれたスペンサーが、ゆらゆらその重みで左右に揺れて綱渡りをしているようにも見えた。
 
 ぼくは彼女が撮影したあとを追いかけ同じ角度でレンズをのぞき込み、ピントを合わせて被写体の表情を捕らえる。変圧器が付いていないから、性別は何だろうと思いながらシャッターを切る。空間と時間をボタン一つで遮断して、ぼくはもう一度レンズ越しにのぞいてみた。
 
 雲は上空まで昇り、風景は流れる。ぼくの隣りにいる彼女は違うレンズ越しで同じ世界を見つめている。空は近かった。雲の隙間から伸びた電柱は地上を目指して真っ直ぐに立っているようで、ぼくは逆さまのまま重力に引かれているようだった。ふらふら飛んできた鳥は、電線を止まり木にして、ぼくをちらりと見たような気がした。ぼくの世界に迷い込んで、果てしなく続く空の上に羽を休めている。そして、また逆さまの世界をどこかに飛んでいくのだろうと思い現実の空を眺めた。空は遠くて、いい天気だった。真っ白な雲に透き通るような青は高くて、鳥はその空を目指して飛んで行った。ぼくはにこりと微笑んで、まだレンズをのぞいている岩瀬を一枚だけ撮った。


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野田祥久郎
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