パラレルライン「7」
いつから蝉が鳴き始めたのだろうかと考えていた。七月の中旬、下旬だったろうか? それとも気付いた日が鳴き始めだったのか? いつも突然鳴き始めて、そして突然聞こえなくなる。せめて蝉の声が聞こえなくなる日を確認しよう。そんなことを考えていた八月初めの昼下がりに岩瀬から連絡があった。
「今年は一段と暑いわね」
「そうだね。例年より暑い夏になるって言ってるけど、毎年そんなことを言ってるような気がするよ」
電話越しに何かを飲んでいる音が聞こえる。
「こんな昼間からもうお酒飲んでるのかい?」
「そんなわけないでしょ。お水よ」
一瞬の静寂。
「ところで、きみは蝉がいつから鳴き始めたのかわかるかい?」
「蝉か……」
彼女は少し考え言う。
「確か十日前だったと思うよ。私が認識しているのはね」
「そうか、ありがとう。いま考えてたんだ。今年の蝉はいつから鳴き始めたのだろうって」
「それで高木くんが気付いたのはいつなの?」
「昨日だよ。公園を散歩しているときかな。そのことをいま考えていたら、きみから電話があったんだ。きみが知っていたのは助かったよ。もやもやしてたんだ」
彼女は何か考えるているのか、少しだけ沈黙する。
「わたしは十日前から蝉が鳴いているのを認識したけど、高木くんは昨日からでしょ? じゃあ、それは昨日から蝉が鳴き始めたってことでいいんじゃないかな?」
「どういうこと?」
「もしかしたら十日より前に蝉は鳴いていたかもしれないってこと。私が認識したのはその日だった。でも高木くんは昨日から鳴き始めたことを認識しているでしょ? つまりその日より前は、わたしや高木くんが意識する世界の中に蝉はまだいなかったのよ」
「それはつまり……。どういうこと?」
「わたしはね」
彼女はひと呼吸置いて語り出す。
「この世界にはたくさんの世界があると思うの。大きな一つの世界があって、その中にわたしや高木くん、人それぞれの世界があるの。自分の中にあるものかな。その世界はね、常に自分の目線で成り立っていると思うの。暑い寒いとか、好きや嫌いとか。どうしようもなく小さなもの。でもそれは、色々なものを取り込むことによって少しだけど……。大きな世界に近づくことができると思うの。そうするとね、水やお酒が美味しくなって、苛立つことが少なくなって、人の気持ちがわかってくるの。それでも世界のズレは決して重なることはないと思う。だからその世界を繋ぐ何かが必要なの」
「世界を繋ぐ何か?」
「そう。その何かがなければ世界は互いに干渉しないと思うの。例えば蝉の話しだったら、確かに鳴き始めを認識した日は違うわ。それは普遍的でどうしようもない真実でしょ? でも、それを互いに意識して共有することで、世界のズレを繋ぐことができると思うの。些細なことでいい、何だって構わないのよ」
「つまりは、好きな女の子の気を引くために、その子の好きなR&Bを片っ端から聞いて、薄っぺらの知識で少しでも会話をしようと試みるようなもんか?」
「そんなことをしたの?」
彼女は笑う。
「中学生の時だよ。実らない恋だったけどね。ちなみにぼくは基本ROCKだ」
「あら奇遇ね、わたしもROCKよ。でもジャンルはたくさんあるわよ」
「きみは詳しそうだ」
「話しは変わるけどいいかしら?」
「いいよ。その話しをぼくは待ってたんだ」
「察しが良いわね。この前、蚊に刺されて腕がまだ痒いのよ」
ぼくは電話越しで笑ってしまった。
「蚊の話しなのかい?」
「そうよ。蚊の話しよ。腕が真っ赤で本当に嫌になっちゃうわよ……」
「最近きみは冗談を言うようになったね。前はもう少しクールな人だと思ってたんだけどな」
「わたしはどちらも兼ねそろえているのよ」
「ところで、日曜日は空けてくれてる?」
「最後の日曜日だよね? もちろん空けてるよ」
「ありがとう。それじゃあ待ち合わせは午後三時にいつものバーの前でお願いね」
「わかった。いつものバーの前で、でも陽が沈むにはまだ早くないかい?」
「たまにはいいのよ。気分転換も大事でしょ?」
「そんなもんか?」
「そんなもんよ」
電話越しで彼女が微笑んでいるのが分かる。
「暑いから熱中症対策は各自お願いね」
「先生みたいだな」
「電線の歩き方を伝授してあげるんだから先生よ」
「きみから付き合ってと言ってなかったか?」
「そうだけどそんな気分なわけよ」
「はいはい。わかりました。では当日はよろしくお願いします。先生」
「はい、は一回ね。よろしくお願いします」
そう言ってぼくらは笑った。
ベランダに出ると、生命の源である太陽は、悪魔のように生命力を奪い取ろうとしていた。冷房の効いた部屋の中にいたぼくは思わずため息をついてしまう。朝、水をまいた葉ネギの土はもう乾いていて、陽の当たらないところに移動させただけでも汗が吹き出る。人類の造った冷房は、もしかしたら神の領域を侵しているのではないか? その分の対価が毎年上昇する気温だろう。そんなことを考えても、この暑さには勝てずに部屋に戻る。岩瀬が言った大きな世界の中さえもまた、ぼくらではない小さな世界があった。この世界はいったいどれだけの世界の集合体で構成されているのだろうかと、疑問に思ったが直ぐに無意味なことだと気付いた。
家から電車に乗って数駅進み、大きな川を渡った位置にあるこの街は、対岸の住宅街とは雰囲気が一変して下町の景色が広がる。細い道が続く駅前の商店街を抜けて少しだけ裏路地に入ったところにいつものバーはある。
今日は午前中から特に予定もないので、待ち合わせの一時間前に着いた。前回店内に貼ってある営業時間から、昼間はカフェをしてることがわかったので、一時間だけ暇を潰そうと思い早めに向かったわけだ。
店に入ると、いらっしゃいませと声が聞こえてバーテンに視線を向ける。彼は驚いた表情をして、お好きな席へとにこにこして言った。夜来たときは最低でも三、四人はいるのだが、ランチにしては遅い時間だからだろう、客は一人もいなかった。カフェ仕様とでもいうのか、夜の時間帯よりも明るく、夕陽の写真を飾ってあった場所は縁だけ残して、天井のプロジェクターから映画を上映していた。ぼくはどこに座ろうか少しだけ迷ったが、カウンターの椅子に腰掛けた。
「こんにちは。お昼は食べてきたのでアイスコーヒーだけお願いします」
彼は「畏まりました」と言った。
「昼間は映画を映してるんですね」
「そうなんです。わたし映画が好きで、昼間の時間帯はお店も賑やかになるので映して、夜はできるだけ暗くして、蝋燭の明かりでお客様の大切な空間を造れたらと思っているんです」
彼はグラスに氷を入れコーヒーを注ぎながら話した。
「今日はいつもの女性の方はいらっしゃらないのですか?」
「このあと三時に待ち合わせしてるんです。なんでも電線の写真を撮るらしくて……」
「面白い趣味をお持ちですね。電線に何か思い入れでもあるのでしょうか?」
「よくわからないんですよ。いつも不思議なことを言う人なんです」
アイスコーヒーを口にすると、汗ばんだ体に豆の香りが浸透して、暑さで苛立っていた脳も落ち着きを取り戻した。
「今日いろいろと聞こうかなと思ってるんですよ」
「そうですか。分かったらこっそりとわたしにも教えて下さいね」
冗談まじりに彼は言い、ぼくは「わかりました」と笑った。いつもは静かな彼も話すと意外と気さくな人柄だった。
それから少しだけ世間話をした。だいたいがぼくの話しだったが、彼はうなずきながら聞いてくれた。好きな映画の話しになり、プロジェクターで映している映画の話題になった。
「ところでこのアニメはなんですか?」
「これはドキュメンタリー映画なんですよ。ドキュメンタリーっていうと、主役の日常を追いかけたり、インタビューしたりした映画が主流ですけど、これはちょっと違うんですよ」
そう言って彼は、いま映されているシーンまでの説明をしてくれた。
主人公は八十年代にある戦争を体験したがその記憶が欠落していた。その記憶を当時の戦友達を巡り、話しを聞きながら紐解いていくことが大まかなストーリーだ。そうすることによってこの戦争の実態を知ることになる。ぼくは絵は変だし、動きがカクカクしている映像がどことなく嫌だった。唯一面白く惹き込まれたのは、ロケットや銃弾、花火が打ち上がる中で、男達がワルツを踊ってるシーンだった。そのあともアニメ―ションが続き、いつの間にかこれがドキュメンタリーであることを忘れていた。
物語はクライマックスを迎えようとしていた。戦場カメラマンが旅行者気分で撮影している。カメラを構えレンズを通して、彼は映画を見ているような感覚なのだろうか?
『すごいぞ。銃撃戦に戦車、けが人までいる』
彼は狂うように叫びをあげる。やがてカメラは壊れてしまい、厩舎で馬が無惨に殺されているところを目撃する。戦場で精神を破壊されない為のカメラはもうなく、それは少しずつ恐怖へと変わり、彼は現実に生身の素手で触れてしまう。
ぼくはその場から動けずにいた。アニメーションでデフォルメされた映像から、一気に引き戻されるラストシーンに言葉がでなかった。ただその無惨な現実だけが焼き付く。
バーテンがにこりとして「サービスです」と言ってチョコレートケーキを出してくれた。ぼくはそのケーキを見ながら、処理しきれない脳を必死で現在に戻す作業を始める。一口甘いケーキを食べてアイスコーヒーを飲み干す。大きく息を吐いて天井を見る。
現実なのか、それとも虚構なのか? 現実だとすれば、それはぼくの現実ではなく、限りなく虚構に近いもの、そう限りなくだ。現実に触れる勇気もなく、ただ傍観者を決め込む。ただそれだけだ、何が悪いのか? 人間はいつでも自分が可愛い。他人のことなんて余程親しい間柄でもそう考えることなんてない。よそはよそ、うちはうち、小さい頃に母親から言われたようなことが基本的根幹にあり、都合の良い時だけ、あの家の子はね、と比較され妬む。それが幸せなことだと知らず、他人に与えられた因果を偶有だとも知らず、ただ現実という名の虚構世界で生活する。
岩瀬ならどう感じるのだろうか? ぼくにない何かを持っている彼女なら、そんな世界と繋がることができるのだろうか?
壁一枚はさんで住んでいる人さえもぼくは挨拶しかしたことがない。一番近くの他人は、地球の裏側に住む顔も知らない人とさして変わりない。それぞれ自分の世界に引きこもり、極力互いに干渉しない一定の距離を保ちながら生活する。それは利巧な考え方ではないのか? 些細なことで人は何をするのか分からない。親切に接したつもりが、逆上させ自ら危険に身を投じる可能性だってある。醤油が切れたからお隣さんに借りに行く。そんな時代でなく、無言で感情のない機械の様にレジで会計をして、店員の態度が悪いと家路で誰にぶつけることもない憤りを胸にしまう。そしてまた自分の世界に身を隠す。そんな世の中で誰かと繋がるということがどれだけ難しいことだろうか?
それでも岩瀬ならぼくの問いに必ず答えてくれると思ってしまう。
無機質なコンクリートの天井を見上げながら瞳を閉じると、そこに答えがあると信じて見慣れた無辺の宇宙を敷き詰める。
もしも全ての星の光が地上に届くならば宇宙はこんなにも美しくはないだろう。太陽が沈んだとしても、闇が訪れることはなく星を確認することもできないだろう。逆もまた然りだ。そうなれば、ぼくらは夜空を見上げることはなかった。星に名前を付け親しみを込めて、何万光年も離れた星々を結び星座と呼ぶこともなかった。産まれた月の星座を意識して、毎朝占いを見ることもなかった。触れようと手を伸ばしても触れることのできない星だからこそ、背伸びをして触れようとした。現実から逃げ出し、大地に生きる者の延べられた手を拒んできた。
岩瀬のことを考えながらぼくだけの星を創り出す。ここは世界のどこだろうか? それ以外何もない。微粒子が目の前を過ぎ去り、空気中の原子核に衝突をして光を放つ。その光に手を伸ばすと思ったよりも容易く触れてしまって、握った拳を固く閉ざした。
「彼女が言ったんです」
彼はうなずき、次の言葉を待っている。
「大きな世界の中に小さな自分の世界があること、世界はズレていて重なり合わず、極力干渉しないように出来て……。でも意識を共有することで世界は繋がることが出来るって」
「素敵なことを言う子ですね」
彼は言い、ぼくは少し笑って「そうですね」と言った。
扉に人影が出来たと思うと、ゆっくりと開いて「こんにちは」と聞こえた。顔だけのぞかせた麦わら帽子の岩瀬と目が合うとにこりとして、またバーテンの方を見て「こんにちは」と言った。彼は挨拶をして、小さくぼくに「素敵な繋がりを見つけて下さい」と言った。その場で会計を済ませて「昼間はもっと楽しくてお洒落な映画を映した方がいいですよ」と言うと「今日はお客様がいなかったものでつい」と笑った。麦わら帽子をのぞかせた岩瀬の顔が、ぼくの感情とミスマッチだったので面白かった。