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修証義を読む④

今回のバーチャル坐禅会は「修証義を読む④」
前回の続きになりますが、『修証義』の第五節を読んでいきたいと思います。

前回の内容はこちらから!

ようやく、第一章も残り一節となりました!
ご参加いただきありがとうございました。

第五節「自分の行いに責任を持つ」

因果応報、自分の行った業(行為)の影響力には3つの時間差がある。①今生で受ける場合、②来世で受ける場合、③来来世で受ける場合の3つである。仏道を修行するには、この道理を正しく理解しないといけない。そうしないと、誤った道に陥り、挙句の果てには悪道に落ちて長く苦しむことになる。

業とは、自分の行いになります。善業にしても悪業にしても必ず自分自身に返ってきます。

悪いことをしても、その時は何も起こらず、まるで助かったかのように感じることがあります。また、良いことをしたのに不幸なことが起きてしまう場合もあります。しかし、仏教の教えでは、そうした行いの「業(ごう)」は必ず自分に返ってくるとされています。

業は、今生(こんじょう)で返ってこないこともありますが、来世、来来世、あるいは遠い未来にまで必ず影響を及ぼします。

前前前世から君を探しにくるぐらいなので、業も来来来世までついていきます。

だからこそ、自分の行いには責任をもって生きていきましょうね

業報の理を正しく理解する

「良い報いがあるから良いことをする」「罰が当たるから悪いことをしない」ということではありません。

ここで、禅の開祖である菩提達磨大和尚と梁の武帝の有名な問答を紹介します。

菩提達磨大和尚はインドから中国に禅を伝えたお坊さんで、お馴染みの「ダルマさん」です。また、陵は約1500年前の中国の王朝で、当時の皇帝でもある武帝は仏教への信仰が深いことでも知られています。

梁の武帝
「私はこれまで多くのお寺を建て、多くの僧を施してきた。私には将来どれだけの功徳がありますか?」
菩提達磨
「無功徳」

武帝は、自分の功績が称賛され、功徳がありと認めてもらいたかったのだと思います。しかし達磨はその意図を見抜き「無功徳」つまり「功徳など無い」と答えたのです。

確かに、武帝の功績は仏教の発展に大いに貢献したものでしたが、「功徳を得たい」という心が善業そのものを無意味なものにしてしまいます。
功徳を求めるという心がせっかくの善業を無いものにしてしまいます。

功徳や見返りを求める気持ちがあるなら、その行為は利己的なものになりがちです。誰かのために何かしても「ありがとう」と言われないことがあるかもしれません。そんな時に少しイラっとするかもしれませんが、その気持ちは私たち自身にあります。

相手の反応に関わらず、純粋な相手のためを思って行動する。
そんな優しい心を大切にしたいですね。

気をつけたいこと

今の行いが自分自身の「業」によるものと捉えます。しかし、それを過度に強調すると、弱者に対して「その人の状況もこれまでの業が原因である」と判断し、寄り添うことを疎かにしたり、偏見をいだいたりする恐れがあります。それでは本来の慈悲の心から遠ざかってしまいます。

むしろ、苦しんでいる人の立場にたち、寄り添ってください。



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