第2回 『客観視』 (2023.1.31 )
最近、客観視という言葉をよく耳にする。
なんとなく意味を理解した気になってはいるが、
でも、そもそもの"客観視"の意味がすごく気になり調べてみた。
いくつかの回答を文字的に総合してみると
自分自身のことを利害や感情を抜きにして第三者的な立場から見ること
らしい。
ちなみに第三者とは?
その案件や事柄には関係はあるが当事者ではない人のこと。
らしい。
では当事者とは?
その案件に直接関係のある人のこと。
らしい。
じゃあ客観的とは?
独立した立場から、
誰が見ても最もだと思う視点から、
個人よりも普遍的な妥当性から、
物事を考える様
らしい。
ここまで調べて、
書きながら一つ気づいたことがある。
それは、
僕自身、どうやら客観的という視点が好きじゃないらしいということだ。
僕らは人間という生命としてこの世に存在している時点で、
必ず何かしらのコミュニティには属している。
まぁまぁ大きな括りで言えば、
何類なのかから始まり
国、住所、そんな小さく物理的なコミュニティもあれば、
家族、同僚、飲み仲間、と言った人的なコミュニティもあるし、
精神的なコミュニティもきっとある。
時間軸のコミュニティすらあるだろう。
自覚無自覚や、好む好まざるも含めると、
きっと無限に近いコミュニティの円が重なり合ったその真ん中に
僕なら僕
彼女なら彼女
彼なら彼が存在している。
そんな状態の中で、
果たして、
独立した立場って何?
誰が見ても最もだと思う視点って何?
個人よりも普遍的な妥当性って何?
はぁ?
って思ったんだろうな、多分。
あ、ちなみに今回、
例えば戦争について、だとか
正義について、だとか
そんな大それた話をしたいわけじゃないので悪しからず。
例えばあるコミュニティに焦点を絞って考えた時に
そのコミュニティには属してはないんだけど
そのコミュニティの内部がギリギリ見えるみたいな立場から
そのことについて考えるみたいなことなんだろうか。
そんな一枚ガラスを挟んだ安全な立場から言われたことなんて
とか思いつつ、
仮にこれがやっぱり争いにおけることとかだった場合は、
本人たちとしてではなく
コミュニティとして白黒つけなければならない場面があるから、
やっぱり法律の類から出てきた言葉なんだろうなと思った。
たしかに、
この視点や立場を存在させないと、
こと人類というコミュニティにおいて生きていくのは無理だと思う。
ただ今回はあくまで、
僕が最近よく聞く意味での客観視
要は、
「自分のことをもっと客観視してみてさ~」
的な客観視の話。
自分の中で噛み砕き&消化を重ねていって、
まぁつまるところ、
どの立場のどの他人にどう見られてるか、というか
人の持つどの側面がどの角度から見られてるか、
ってことなんだろうな、と行き着いた。
ただそれは同時に、
その人自体がどういう人かっていう話ではないよな、とも思った。
もちろん、
自分が持ってもいない側面を見せることはそもそもできないけど
当然一つの視点から
その人の全てが見えるわけではない。
それは
「どの自分も貴方なのよ!」みたいなありがちなカウンセリング的なことを言いたいわけではなく、
そもそも客観的に人を見ることなんてできなくね?ということ。
人は少なからず誰しもが
他人にどんな風に見られたい、という気持ちがあると思う。
愛されたい、はその究極だ。
その上で、
より言語化していくとするならきっと、
誰でもに自分をどう見せたい、より
どの誰に自分のどこ見せたい、が
正しい答えなのかもしれない。
そんな時に言われる、
「客観的に、そう見られていないよ」には
当たり前じゃん、だって”第三者”のあなたの角度からそこ見えないじゃん、って、
思ってしまうんだと思う。
こう見られたいって思っている相手って
"見られたい"と思ってる時点ですでに当事者で、
"客観視"もうできない立場にいるんじゃないのか、と。
それは
僕(ら)のような不特定多数に向けて発信している者も同じことで
例えば実際に会ったこともなく、イメージでしかない誰かに対して、
良いと受けとってもらえたらな、という想いで作ったり発したりしている時、
「もう少し客観的な目線を」
そんな言葉が正解のように聞こえてしまう。
だけど、
届いて欲しいと思っている人って
会ったことあろうがなかろうが
やっぱり僕にとっては第三者ではなく、
当事者なわけで。
それはもう、
1対1の言葉なんだなって思う。
1万人が相手だとしたら
1対1が1万回あるだけの話。
だからそもそも客観視できる”第三者”が
僕らの言葉の送受信に良し悪しの判断なんかできないんだって思うんだ。
何かに迷ってる時はついつい、
自分の内ではなく、
自分の外にある言葉に答えを探してしまう。
仮にとある言葉から
例えば自己啓発なんかに至ることがあったとして、
でもそれはきっとその言葉のおかげなんかではない。
自分の見せたい部分と、
そしてそれを見せたい相手が、
きっと今より少しだけクリアになっただけだと思うから。
自信なんていらない。
自信ってのはきっと
そんな説明する時に探す用の付箋みたいなもんだ。
きっと僕らは
もっともっと、
主観的であればいい。
ただそれだけだと思ったんだ。
そんなことを思った午前5時の布団の中でした。
翔馬