櫻井義秀先生と語る「日本仏教の「よき祖先」」
今年も、札幌で櫻井義秀先生(北海道大学教授、ご専門は宗教社会学)と対談する機会をいただいた。北海道内の寺院関係者が集う研修会。前回に続き、アレンジをしてくれた玉置真依さんに感謝です。
櫻井先生は最近、日蓮宗で得度されたそうだ。学者から宗教者になられた背景には、自ら実践者となるほかなかった日本仏教への思いがあったのだろう。お忙しいなか、さっそく『グッド・アンセスター』をお読み下さったそうで、今回は「日本仏教の「よき祖先」」をめぐる対談となった。
櫻井先生だけではない。私自身を含めて、本当に多くの人が今、身をもって短期思考の限界を感じている。短期思考に設計された社会に共振するように、自らも同じ思考で世界を捉え、自分自身を煽ってきた。それに応える日常はいつも一生懸命であったし、得られた成果や達成感に、満足を感じる瞬間も確かにあった。けれど、立ち止まって違う視点から見てみれば、「果たしてなんだったか」とこれまでの自分や世界を見直す人は多い。短期思考の「マシュマロ脳」は、瞬間的な満足に依存的だ。意思があってもなかなか抜けられない。それゆえ、暮らしそのものを創り直そうと、アラームとアテンションに追われる生活から降りる人々が増えている。
「かつての日本は長期思考だったはず」とその辺の座布団をひっくり返してみても、「ああ、これこれ、ここにあった。」と取り出せるものではない。もちろん、長い視点で人生を送られている方々もいる。けれど、多くにおいては家中をひっくり返したところで、かつてあった「ハズ」は見つからない。そんな僕らにとって、それはもう「ない」も同然なんだろう。掘り出そうとするよりも、「失われたもの」として新たに創り、構築していくところからやっていくしかないんじゃないか。
日本仏教の扱う先祖と「グッド・アンセスター」の示す祖先
先生は、かつて先祖崇拝の研究もされていたそうだが、世界の先祖崇拝を比較すると「アンセスターウォーシップ(祖先崇拝)」が見られる地域はアフリカと東アジアに限られるという。共通するのは「家父長制家族」で、中国であれば数千人単位の族群であるし、日本であれば氏族や家制度がこれにあたる。これらを存続させるために、宗教的な祭祀として儀礼化したり教義にする必要があったというわけだ。こうした背景があっての先祖崇拝であって、ここにある先祖と、柳田國男の語る「田園風景の中にある」先祖とは意味合いが異なると先生は指摘する。
先生がおっしゃるのは、「グッド・アンセスター」の、自ら祖先になっていくという視点で捉える「祖先」は、日本仏教がこれまで行ってきた「氏」的な先祖崇拝とは異なる部分があって、安易に実践の主体として結びつけるわけにはいかないということだ。これまでの先祖崇拝とは異なる「よき祖先になる」ことを、お寺や仏教が吟味する必要性を提示してくださった。
ライフスタイルが変わり、イエや会社との関わりも相対化されるようになり、一人の人が様々な分人(顔)をもつようになった。しかし、相変わらずお葬式の担い手は遺族であり家族である。コロナの後押しもあって、昨今の弔いの場は、遺族以外の分人はアクセスすることすら難しくなっている。誰もが弔いの担い手になり得る機会を、お寺自らつくっていくということ。それは、血縁に閉じない祖先との繋がりを提示していくことであり、社会的にも意義がある。同時に、間口を解放していくことは、お寺にとっても必要なことだろう。
短期思考社会を日本仏教から解いていきたい
既存のフレームの中で捉えられる数字を、いかに大きくするかに留まっていては、改善はあってもイノベーションは起きてこない。みんな結局、疲弊していく。そのことに企業も気がつき始めているが故に、産業僧のような、これまでとは違ったものを求め始めている。企業でも宗教法人でも、拡大傾向にあったかつての成功パターンを捨てられないジレンマの中で苦しんでいる。永続的な発展の呪縛に陥らず、型を守りながらもブレイクスルーを創ってきたのが、いわゆる「老舗」かもしれない。
櫻井先生は、未来にツケを残すことなく受け継ぎたいと、繰り返した。それは、食物の育つ大地を、収穫のできる漁場を、つまりは生命の豊かな地球を遺すことでもある。国債を一体どれだけ国民が背負い得るのか分からないが、未来の食糧を刈り取るように地球を消費するわけにはいかない。人の身体は自然そのもの。自然への振る舞いは、そっくりそのまま人類への振る舞いに等しい。
オードリーは、「Life is Good」で自らの人生を十分に生きよう、未来世代を信じて、彼らに選択肢を残そうと言っている。僕ら東アジア文化圏に生きる者たちは、神の審判を恐れて規律で正していく手法より、山川草木に入り込んでいる神々との関わりを大切にして、豊かに生きることが向いていそうだ。そして、選択肢を残していくにあたっても、安易に審判を下さない社会でありたい。失敗を許される環境にあってはじめて、自由な選択が可能になるのだから。
仏教文化は、死者を背後に、死者と共にメッセージを発することのできる貴重な土壌だ。社会変革の力になり得る。日本の近代化は、主体性を失ったサービス享受型、消費者型の個人化であったと櫻井先生は仰っていた。過去と未来、そして今を生きる個人を繋ぐコモンズのベースキャンプとして、日本仏教のお寺が機能していくことを、社会は求めているだろう。
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