一般連続体仮説の独立性証明、ベルの不等式の破れ、及び真偽の確定できない「命題」、存在の確定できない「実在」について
今日は、よく分かっていないことを書きます。(いつもそうですが)。
参考にしたのは、Wikipediaの次の項目です。
クルト・ゲーデル - Wikipedia
それから、日経サイエンスの2019年2月号を読んでいます。
最終決着「ベルの不等式」の破れの実験 - 日経サイエンス (nikkei-science.com)
「ZF公理系に選択公理を加えたもの(ZFC)と、(一般)連続体仮説は独立している。すなわち、ZFCから(一般連続体仮説が成立していることの)証明も、その否定の証明もできない。」(ゲーデルおよびコーエンによる証明)ということは、何を意味しているのか。
この証明は、一般連続体仮説が(ZFCのもとでは)証明をすることもできないし、その否定を証明することもできない、ということのみを述べている。つまり、一般連続体仮説という命題の真偽を(証明という手続きによって)決定することができない、ということのみを述べている。それは、一般連続体仮説が成立しているか、成立していないか、ということ自体には言及していない。
ということは、(ZFCのもとでは、という限定付きではあるが、具体的に)証明をすることはできないが、一般連続体仮説が成立している、あるいはしていないという数学的事実は、(具体的にそれを証明することはできないにしろ、)ある、ということを意味しているという考え方がまずある。(※ゲーデルが、ZFCが適切でないため、一般連続体仮説の否定が証明できないと“信じていた”という事実は、こちらの考え方に分類される)。
つまり、証明されるか否かに関わらず、何らかの数学的事実が存在しているという考え方である。
一方、明証的に(肯定も否定も)証明できないのであれば、そもそも、その命題は命題とは言えないのではないか、という立場もありうる。命題は、真または偽になるものである。しかし、真か偽かを具体的に決定できないとすれば、そもそもそれは命題といえるものなのだろうか、という疑問は当然に生じるだろう。
そして、一般連続体仮説が、命題として成立しないのであれば、そもそもそれは、何らかの数学的事実でさえないのではないか。その肯定も否定も証明できないのであれば、そういった数学的事実は、実のところ存在していない、と見なす立場もありうると思われる。
まとめると、肯定も否定も証明できない命題は、そもそも命題たりうるか、あるいは、その命題が記述している事実、あるいはその否定が、証明という手続きとは別に、実在しているのか、という疑問は、生じうる。
類似の事例として、物理学(量子論)において、ベルの不等式が破れているという事実がある。
これに関連する結果が、2022年のノーベル物理学賞を受賞しているが、それはさておき、ベルの不等式が破れているということは「隠れた変数による理論」が存在しない、ということを示している。
「隠れた変数による理論」が存在しないということは、素粒子の位置・状態を具体的な理論によって確定できないということを示している。しかし、そのことは、素粒子が、量子論に基づく予測とは異なり、ある特定の位置・状態を実際には保持しているという事実(それは、観測者には不可知であるわけだが)を持っている、あるいは持っていないという可能性について、言及しているわけではない。
つまり、ベルの不等式が破れているという事実が、正確に示しているのは、「隠れた変数による理論が存在しない」という事実に過ぎないのであって、素粒子(あるいは大局的に(アインシュタインのいうような)月など)の実在そのものが持っている性質について、何らかの言及をおこなっているものではない、ということになるのではないか。
つまり、われわれが見ていないときに月が存在しているか、あるいはいないのか、という問題に、ベル実験は、何らかの具体的な言及を行っているわけではない。われわれが見ていないときに月を存在させている、あるいはその存在を否定するような、そういう理論を構成することが不可能である、という事実を述べているに過ぎない。
だから、ベル実験の結果は、実在する、あるいはしないという事実について、何らかの言及を行っているというものではないことになる。
量子論によりその存在が確定できない実在が、では、実際のところ(われわれには理論的に不可知であるにせよ)何らかの局所的な実在、あるいはその否定(非実在?)を有しているのか、という問題は、ベル実験では解決されていない、という考え方をとることができる。その一方で、ベル実験の結果により、そのまま、実在の性質が(そのものとして)解決されている、という考え方もありうるだろう。
これは、さきに述べた、証明することも、その否定を証明することもできない命題が、では、その証明という手続きを離れて、なお「命題」たりうるのか、という問題と、同型の問題であると言える。
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